歌舞伎座「紅葉狩」〜型(フォルム)をいかに食出せるか

rosa412006-12-22

「食出(はみだ)す」って書くんだ、知らんかった。
 まっ、それは置いておいて、市川海老蔵がお姫様から鬼女へ変わってみせる「紅葉狩」を観て、自分が今なぜ、歌舞伎を求めているのかがよく分かった。型とは「フォルム」とか「様式」を意味する。その型を食出すとはどういうことかを学び取りたがっているんだ、おれは。
 前日の日誌で書いた銀座の「セレブ聖地」見学後、2時間ほど新書一冊読んで時間を潰してから、歌舞伎座の一幕見席で「紅葉狩」を観た。粗筋は、赤くマーキングされた「紅葉狩」をクリックしてほしい。
 海老蔵の顔立ちは確かにきれいで舞台栄えするけれど、その踊りはどう観てもお姫様には見えない。10分あまり器用には踊ってはいるが、型をなぞってはいるのだけれど、それさえ満たしていない。ただ、先日お会いした人間国宝中村雀右衛門丈がおっしゃっていたが、女形はその術を体得するのに30年はかかる芸なのだから、それを今の彼に求めるのは酷だ。
 さらに海老蔵演じるお姫様は鬼女へと転じるのだけれど、そこも彼は唐突に大股開きになって「ガウウッ」と吠えてみせる。「紅葉狩」は初見なのだけれど、おそらくはもっとグラデーションをもって色が移り変わるように、お姫様から鬼女へと次第に変っていく様がこの演目の演じどころだと思うのだが、そのプロセスがまるで見えない。それ以降は「鬼女」ではなく、もう「鬼」の獅子舞みたいな動き一辺倒。
 力任せに型をなどるせいでダイナミックではあるが、とても粗雑に見えてしまう。つまり、型を食出す以前に、型を上手くなぞる、あるいは型を満たすこともけっして簡単ではないことがわかる。
 念のため、「紅葉狩 海老蔵」で検索すると、いくつか歌舞伎ファンのサイトがヒットしたが、どれも今回の彼の演技には否定的だった。
 一方、前回観た海老蔵の父・団十郎は、ヤクザまがいの坊主頭の直参旗本役を、その型をたっぷりと満たしながらも、さらに型からさえも食出すオーラを放っていた。まるで病気での休養明けの人物には見えなかった。
 その差は何かと問われれば、今のおれには明確な意見はない。だが、そこを生み出せて初めて、観る者にとって「今まで観たことがないオリジナリティ」になるというこはわかる。それが観る者の心を揺さぶらずにはおかない。文章でもまったく同じことが言える。ただ、それが「わかること」と「できること」は別物だから、自分なりに試行錯誤するしかない。