「人が生きていることには意味がある」という考え方の残酷さ(1)

rosa412007-02-14

「先生は、お話の中で、『どんな人でも、人が生きていることには意味があると思う』とおっしゃいましたけれど、わたし、それってある意味では、とても残酷な話だと思うんですが」
 3日前に書いた橋口譲二さんのトークショーでのことだ。トーク終了後に、ある女の子が橋口さんにした、冒頭の質問にぼくはハッとさせられた。
 スラッとした身体つきで、肩にかかるほどの金色と茶色の中間色の髪。少し下アゴが尖ったイチゴ型の顔に、クリッとした目と少しこけた頬が、鋭い感受性を感じさせる20代前半の女性だった。
 その質問は、自分の存在を何に賭ければいいのかを迷っていると自ら明かしていて、それを人目も気にせず、橋口さんに投げかける彼女の真摯さに、ぼくはとても清々しいものを感じた。もちろん、今の彼女には清々しさなど無縁で、いたずらに空回りする自分がただただ苦しいだけだろう。
 それは誰も手を貸してあげられない。自力で向き合い、突破するしかない。でも、それは若さの特権でもある。彼女の真摯さに、ぼくはかつての自分を垣間見て、過ぎてきた青々として、ぶさいくな青春の匂いを嗅いだのだろう。 
 彼女の質問に、橋口さんは「今の時代は、その人が所属する社会的位相、企業名や年収の多少などでその人の価値を限定してしまう風潮が強まっているようにぼくは思っていて、それはやはり違うと思うんです」といったニュアンスの答えをされていた。誰にでも丁寧な言葉で向き合われる橋口さんの真摯な人となりも、また印象的だった場面だ。(つづく)