rosa412007-02-21

「人が生きていることには意味がある」という考え方の残酷さ(2) 
 先週、橋口譲二さんのトークショーで見かけた女の子について書いた。彼女が「人が生きていることには意味がある」という橋口さんの言葉に、「それはある意味で、とても残酷な意見だと思うが」と反論したことに、心惹かれたからだ(id:rosa41:20070214)。少し間が空いたが、その続きを書く。
 ぼくは彼女の反論めいた言葉を聞いてドキッとした瞬間、思い出したのはひとりで中国に出かけたときのひとつの光景だった。
 当時のぼくは、韓国から帰国後、実家で寝起きしながらラーメン屋でバイトしつつ、習得した韓国語を武器に、ある大学の大学院を目指そうとして挫折していた。大阪府立図書館でコツコツ研究論文など読みながら、どうも違うなと思い出した。大雑把にいうと、ぼくがあの国で感じ考えたものを表現するのは、学術的なレトリックとは明らかに別物だと思えてきた。
 目の前が真っ暗になった。自分の行き先を見失ったからだ。すると、ラーメン屋のバイトを終えて終電車で帰る車内で、目の前の疲弊したサラリ―マンと自分の区別がまるでつかなくなった。ああいう男になりたくなくて、違う生き方を選ぼうとしているはずなのに、夜の車窓にうつる自分の顔は、そのサラリ―マンと大差ないほど疲れていたから。その上、そのときのぼくはどこにも属するものがなくて、何者でもない、ただのチンピラだった そのとき、とっさに「デッカイところに行きたい」と思った瞬間、「中国で揚子江を見たい」と思い立っていた。(つづく)