言い訳をこそ疑う、という作法 

 ひきこもり仕事ゆえ、時にたまらなく身体を動かしたくなる。夕方、ひと仕事終えて、ウォーキングに出て、そのまま銭湯へ。湯に浸かりながらテレビを観ていると、太田光らが、「なぜ政治にお金がかかるのか」というテ―マの下で、政治家と議論していた。
 面白かったのは、政治家側が「次も当選するためには、地元の冠婚葬祭費や秘書の人件費などお金が必要」という前提を少しも疑うことなく、自己弁護に終始していたこと。芸能人側の誰かが、「要は、自分が議員でいつづけるために、お金がかかるってことでしょう?」と絶妙のツッコミを入れていた。
 ただ、これは他人事じゃない。ぼくの場合にも、仕事において無意識に多用している言い訳がある。
「企画が通らないと、現地に出かける取材費がない」「売れませんねと出版社に断られた」
 でも、これは違う。詭弁だなと、その政治家たちを見ながら気づかされた。
 だって、本当に政治にお金がかかるという現実があるのなら、むしろ、それを逆手にとってお金のかからない選挙を貫くという公約だって、じゅうぶん強力な戦略になるからだ。前宮城県知事の浅野さんの選挙活動は100円カンパを有権者から募り、1200万円前後集めるという付託の「見える化」を図っていたと、テレビで放映されていた。そういうアイデアだってじゅうぶんありだ。
 ぼく自身、その程度のことで簡単にブレてしまう自分の弱さ、その信念の薄っぺらさとこそ向き合わないといけない。それを自分を被害者にすり替えて、「みんな、わかってないな」と他人のせいにしているだけだ。
 世の中にとって本当に必要な視点だという信念が、そのプロ意識が足りない。
「忙しいから」「余裕がなくて」、自分が無意識に使っている言い訳をこそ疑ってみる。目からウロコな、銭湯タイムだった。