松岡正剛『17歳のための世界と日本の見方』〜引き算の美学(2)

 同じ本の後半に、枯山水の庭についての記述がある。

 枯山水は、小さな庭の空間のなかに大きな山や川を表現するために、あえて石だけを使ったものです。水を引き算したものです。そして石の置きかたや、わずかに流文を描いた砂利だけで、そこに滔々(とうとう)と流れる水を感じさせた。水を感じたいから、水を抜いたんですね。これって、何でしょう。何もないことによって、見る人の想像力のほうに、大きな世界を見せていこうという方法です。
 こういう方法のことを私は「負の方法」と呼んでいます。あえてそこに「負」をつくることによって、新しい「正」が見えてくるようにする方法です。

 先の藤原定家の歌にこめられた「幽玄」、その発展形として枯山水がある。それは禅文化の影響もあるらしいけれど、室町という時代の懐深さを感じさせてあまりある。それは世阿弥の「能」などに引きつがれていく。
 松岡さんはさらにこう続けている。

 これこそ日本独自の方法であって、ある意味で身分の低い遊芸者たちが、文化の上では権力者たちと台頭に並び立つことのできる恐るべき方法にもなっていったんですね。

 この言葉の先には、豊臣秀吉を自らの茶室に招き入れて、美意識で対峙し、ついには秀吉の怒り(嫉妬?)を買って殺された千利休がいる。
 そこまで読んでみてぼくが思い浮かべたのは、いまどきの世の中だ。片や企業の「収益率」「メイド喫茶系」「Youtube」といった見た目(ビジュアル)への偏向と、片や「前世」や「霊能力」といったオカルトへの異様な関心度。そういう感性の「股裂き」ぶりは、まさに混乱と精神分裂の様相を見せていると。
 何より室町時代の「引き算」の美学とくらべて、はるかに卑しく劣化している。(つづく)