矢野誠一『志ん生の右手―落語は物語を捨てられるか』〜細部と全体像のバランス

志ん生の右手―落語は物語を捨てられるか (河出文庫) 
 タイトルにやられた。文句なしにうまい。
「物語を捨てた落語に残るもの」とは何か。それは生身の演じ手であり、その語り口(質感とかテクスチャーと呼ばれるもの)でしかない。下手の横好きながら、書き物商売のぼくもそれは喉から手が出るほど知りたい。
 古今亭志ん生は晩年、病を得てから高座に復帰したものの、右半身麻痺のまま5年間高座をつとめたといわれる。その間、落語家にとっては命ともいえる右半身の動きを一切封じられながら、以前と変わらぬ多彩な演目を、相変わらずの破天荒さで演じたとされる、筆者が彼の「右手」に込めたものこそが、この本のテ―マだ。
 夕食後に散歩をかねて夫婦で出かけ、近くの書店で奥さんには東野圭吾の『秘密」を、ぼくは目に飛び込んできた『志ん生の右手』の文庫本を買った。話はまだ序盤だが、こんな部分に目が留まる。

 長屋の生活感に代表される庶民感情の追求が、ややもすれば落語家の藝を、茶の間の会話のリアリティ、つまり日常性をもって最上とするような方向に指向させてしまったきらいがあることは否定できない。
(中略)
 羊かんの食べ方や、酔いっぷりのうまさは、たとえそれがどんなに見事であっても、しごく末梢的なことであって、その落語が、有しているテ―マを明確に語って伝えてみせることとは無関係なものである。どうも、こうした末梢的な技術にこだわるあまり、本来プロフェッショナルな仕事であるはずの落語家の藝が、少しも特殊技術をもたぬ日常性のなかに没してしまったのが、現代の落語であるらしい。

 このブログでも「目に見えるもの」とか「わからない」といったキーワードで、表層的なものにしか多くの人々の関心が集まらない傾向について何度か書いているが、一事が万事なのだとあらためて思う。それは演じ手だけではなく、受け手である大衆の側との共犯関係による。
 テレビでママゴトみたいなコント漫才が人気なのも、それは「どんなバカの目にも見えて」、なおかつ「わかりやすく」、しかも「短い」から。そういうレベルの視聴者のおかげでもある。
 話が少しそれたが、著者の矢野さんの目線は、ぼくにも他人事ではない。少しでも書く相手のもつ雰囲気やニュアンスを伝えようとして、そのディテールにこだわってしまう商売柄、その代わりにテ―マ自体を見失ってしまう危うさがたえずつきまとう。細部と全体像とのバランス、どちらも大切にしなければいけない。ああ、それにしても志ん生の当時の映像が観てぇぇぇ。