「青山二郎の眼」展(世田谷美術館)〜「モダン」と向き合う 

rosa412007-06-16

 稀代の審美眼と呼ばれた青山二郎の眼になんて、ついていけるわけがない。小林秀雄をして「ぼくたちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と言わしめた男だ。それでも、その眼がどんな骨董を見て感応してきたのかに触れるだけでもいい。そう思って、世田谷美術館「青山二郎の眼」展へ出かけた。
 だけど、ちょっとだけ安心した。その多くが、ぼくにとってもカッコ良いいものだったから。かと言って、青山とぼくがそれに観ているものはまるで違うはずだ。そこを誤解するつもりは一切ない。
 たとえば、12、13世紀の中国・金時代の縦長な壺は、アイボリーの地に、こげ茶色で牡丹が描かれているが、じつにモダンだった。今、どこかのインテリアショップに並んでいても、さして違和感を覚えないはずだ。同じことが桃山時代の黒織部の湯呑みや、江戸時代の伊万里の小ぶりな湯呑みにも言える。いずれも青山のコレクションだったもの。その中には横山利一や宇野千代、あるいは柳宗悦旧蔵の但し書きがある。「旧蔵」とは「元の持ち主」。
 あれこれ見て歩きながら、ふと思った。「モダン」と言う言葉はおおむね「現代的で洒落ている」という意味だから、上記の3つを「モダン」と表現するのはやはり変だ。だが、そのカッコ良さを表すのは、ぼくの貧しい語いではいずれも「モダン」になってしまう・・・・・・。いまなぜ青山二郎なのか (新潮文庫)
 その矛盾を整理しようと椅子に座り、すこしボーッとしながら考えてみた。いずれもカッコイイと感じるという事実は、時代の流れによっても、けっして古臭くならないパワーを持っているということ。しかし、それらは「美」というより、やはり僕には「カッコイイ」が近い。あえて言えば、「凛とした佇まい」や「ダンディ」という言い方があるかもしれない。
 他に僕が知っているもので言えば、そう、川端康成谷崎潤一郎の小説に近い。時代の流れに朽ちない「普遍性」を持っている。つまり、ぼくが今まで使っていた「モダン」とは「普遍性がある」ということだった。
「美とは、それを観る者の発見である。創作である」(青山二郎