羽田澄子監督『終わりよければすべてよし』〜死ぬ権利ということ 

 映画の中に出てくる2人の女性が、印象深かった。真っ白なシャツに、真っ赤なブラウスを羽織った60代相当のスウェーデン女性はとても凛としていた。「昨日は自宅に戻って、できる範囲で家事をしてきたわ。その代わり、今日はこの緩和ケアでゆっくりした時間をすごしているの」。そう言って静かに微笑んだ。彼女は2度もガンが再発して今や末期だというのに、とても健やかに見えた。
 もう一人の女性もスウェーデンの方で90歳。脳梗塞の後遺症で、満足には話せないが、ピンクのブラウスの一番の上のボタンまできっちりと留め、その襟元のブローチが可愛かった。見事な白髪には、きれいにパーマが当てられている。うまく話せないけれど、にこやかな表情を絶やさない人だった。二人とも終末期ケア施設で暮らしていた。
 自宅での介護と、終末期ケア施設と病院。彼女たちは、それら3箇所を本人の体調や意志、そして家族の意向を踏まえながら移動しつつ、尊厳ある最期を迎えらえる環境で暮らしていた。映画の中では日本の在宅介護の取り組みも取材していたが、スウェーデンのその2人の存在感がずば抜けていた。いずれも羽田澄子監督『終わりよければすべてよし』の登場人物だ。
メメント・モリ
 人は誰でも健やかに「死ぬ権利」を持っている。そんな当たり前のことが当たり前でなくなっている国に住んでいることを、改めて思う。病院でチューブだらけにされ、いたずらに延命治療されて、植物人間みたいなまま生かされるより、死期を早めても、たとえ贅沢じゃなくても、尊厳のある「死ぬ権利」を行使したい。
 「死を想え」―インドで犬に食われる、ぬめっとした白い肌の、下半身が裸の人の写真と、それに添えられていた藤原新也の言葉が、岩波ホールのエレベーターで1階へと降りる最中にくっきりと浮かんできた。