真夜中のエール

rosa412007-08-07

「ファイト」
 すれ違いざま、思わず小さな声で彼に声をかけていた。彼の耳に届いたかどうかはわからない。むしろ、そんな曖昧さをこそ担保する声量だった。
 先の日曜の夜12時すぎ。近くの公園を30分ほど走ってから、遊歩道で整理体操前のウォーキングしていたときだ。60代後半から70代前半くらいの、顔見知りの白髪の男性を見かけた。彼はその遊歩道で、夜になってから歩く練習をしている。もちろん、話したことはない。その歩幅は15センチ程度、右手に杖をもってじつにゆっくりと歩く。脳梗塞などの病後のリハビリだと、それまでは思っていた。以前は白い子犬を連れていたが、その夜はいなかった。かなりの年寄り犬だったので、もしかしたら、とも思う。
 以前、彼について少し書いたことがある。もし、自分がもう少し年老いて、身体のどこかが動かなくなったとしても、彼みたいに遊歩道を黙々と歩きたい、いや、歩こうとする人でありたいと。
 しかし、遊歩道でひさびさに彼を見つけたとき、ぼくは直感した。彼はリハビリではなく、ただただ、動かない体と向き合うために歩いている。それは今生きていることを、彼なりに満喫するためのものだと。
 だから、「ファイト」と言わずにはいられなくなった。
 置かれた状況は違っても、ぼくがそうだから。心臓が高鳴る音、強気と弱気の密やかな葛藤、思うようには動かない肉体の衰え、曲りなりにも走り終えたときの達成感や、汗まみれの身体を洗ってくれる微風の甘美さ。そんな鮮やかなものたちが、走っているときに次々と生まれては消えていく。そのときの自分が、傍目にはどれだけ不様であろうが少しも構わない。
 オリンピックを目指しているわけでは、もちろんない。ただ、そんな騒々しくて、鮮やかないのちを慈しみたい。きっと、遊歩道の彼も同じにちがいない。「しょせん、どんな人生も最後は犬死ですから」―かつて取材相手として向き合った村西とおる監督の言葉が、耳にこびりついている。