辺見庸『もの食う人びと』(角川文庫)〜図式をはみ出すリアリティ

もの食う人びと (角川文庫) 
 もう高齢の韓国人従軍慰安婦経験者をたずねた辺見さんは、元慰安婦たちが川で並んで、朝に昼に、そして夜に日本兵たちが使ったコンドームを洗濯したと聞くと、そのときに月は出ていなかったかとたずねる。
「なかったです。いつも曇っていたですよ。一度に四十個も洗ったりしたですよ」
 あんた、あれがね、サック(コンドーム)洗いね、忘れられないのよ。いまでもね、思い出がやってくるのよ。いつか日本に行って、私死ぬところを、日本人に見せつけてやりたくなるのよ・・・・・・。
 すると、著者は自責の念にかられて、こうつづる。

 私は金さんを半世紀前の記憶の古井戸に突き落としていた。
 私は落ちずに、井戸の底から彼女の声を聞いている。引き上げる命綱も持ち合わせていないのに。

 ここまで被害者と加害者の図式は少しも揺らがない。
 だが、人間と人間が織り成す事実は、じつはもっとグラマラスで、そのステレオタイプをはみ出さずにはいられない。

「悪い人ばかりじゃなかったのよ。私にザボンやマンゴーや砂糖を持ってきてくれた兵隊さんたちがいたのよ」
「ワイノ」という名前だったという。ワイノは「光子」がほかの兵隊といるとじっと待ちつづけ、会えないと翌日も来て待った。しばしば「おれはもう死ぬ」と言った。
 彼女はワイノのくれた砂糖を湯に溶かして飲んだ。ほのかに甘い味をいまでも覚えている。
 ほかに当時の味で記憶しているのはなんだろうか?
 連行の途中、大阪の屋台で食べた「かけウドン」と彼女は答えた。
「煮干しダシの味が忘れられないのよ。赤いカマボコが載っていて、それはおいしかったですよ」
 帰国後、その味をこしらえようと試みたが同じ味にはどうしてもならない、という。

 図式から言えば、「永遠の被害者」のはずの彼女は、敵国の兵隊の想いをうけとめて、ときに恋する女性にも反転してみせる。ただの「かけウドン」の味をも、郷愁に結びつけてしまう。悲しき運命の前では無力なはずの人間の、その生命力の弾けんばかりの横溢が、この何気ないコメントには満ちていて、読む者の「図式」をあざ笑うかのように圧倒する。青空を求めるサッカ―ボ―ルのように蹴散らす。
 しかし、そんな彼女たちは今も、忘れることができない過去に苦しみ、駐韓日本大使館前で、包丁による抗議の自殺を企てて止められた人たちでもある。それをうけて辺見さんはつづける。

 百万の地獄の記憶と百万分の一のちょっと心地よい記憶の、一切合切を、あの日、この人は包丁で殺そうとしたのだと、私は思う。
 もう、やらないでください。私はふたたびお願いした。
 金さんは「光子」の記憶のまま、白い首をゆっくり横にふった。

 この文庫本の最後におさめられた「ある日あの記憶を殺しに」という表題の文章は、「敗戦記念日」を「終戦記念日」と言い換え、アホな大臣の「しょうがない」発言には怒ってみせても、自らの加害責任にはだんまりを決め込む、良識的な平和主義者とやらの薄っぺらな影を、静かに撃ちつづけている。