佐藤哲郎写真展「紐育流浪」(新宿ニコンサロン)〜突き放す距離感(2) 

 週刊誌記者として働いていた頃、編集者に「別に雑誌として彼を応援するつもりはない」とよく言われた。つまり、ぼくが取材対象に近寄りすぎて、どうしても応援口調な文章になりがちだと指摘されたのだ。そのクセがなかなか抜けない。
 自分が読み手として、最初から最後まで「この人ってすご〜い!」口調の文章には鼻白むのにだ。年数をへて自分なりにバランスをとっているつもりだけれど、まだまだ甘い。
 基本的に取材したいと思う相手への興味や共感が出発点だから、相手への情熱は欠かせない。相手に快く話してもらうためには、信頼をえるための誠実さも必要だ。
 ただ、ぼくの場合、それは往々にして、自分が相手に対して「いい人」でありつづけるための、言い訳だったりする。その甘さがぼくの弱さだ。そのことを、佐藤さんの「突き放す」ような写真群を合わせ鏡にして、ぼくは考えていた。だから、前日の冒頭のように「今のぼくには撮れない」と書いた。
 たとえば、朝青龍がいくら強い力士でも、土俵際で相手にやさしさを見せて手を抜いた相撲をとれば、観客側からは不甲斐なく映る。プロとして甘いと批判される。それと同じだ。土俵上で相手に「勝つ」ことが目的だから、それ以外のものはいらない。本や写真も、表現したいテ―マこそがすべてだ。そのためには極端な話、ぼくが取材対象にとって極悪非道人でも問題はない。人を傷つけることを恐れていては表現などできない。自分の仕事が持つヤクザっぽい要素を、ぼくはまだきちんと消化できていない。書くことは何かを暴くことでもあるのにもかかわらず。
「引きこもり」から「社会」へ―それぞれのニュースタート 
 佐藤さんは、ニュ―ヨ―クの路上生活者たちを撮影した動機について、世界一の超大国であっても、彼らを救えないアメリカの現実にふれた上で、その国の言いなりになる日本に、最近、ホームレスやネットカフェ難民が増えていることとの関連を示唆している。撮影から10年をこえる時間をへて、それらの写真が観る者に挑みかかってくる。
 ちなみに1冊目の拙著の表紙は、佐藤さんの撮影によるものだ。