男の生活力とカップラーメン 

rosa412007-11-25

 昨日の夕方、奥さんが帰国した。それでも今朝目覚めたぼくは、あっ、冷蔵庫のカボチャを早く処理しないと思い立つ。朝起きて、そう思いつくところがすっかり主夫だなぁと、我ながらおかしい。
 顔を手早く洗って台所に立ち、合わせ調味料をつくる。カボチャの種をとって一口大に切り、皮を適当にむく。先の調味料を片手鍋に注ぎ、火をつけてから砂糖を入れ、焦げ付かないように混ぜて溶かし込む。ひと煮立ちしたところで、皮側を下に向けてカボチャを入れ、落し蓋(ぶた)と上蓋をして強火で8分煮る。火を止めたら後は余熱で蒸しあげる。
 もちろん、その間に昆布を切り、四方に切れ目を入れて、すでにアルミ製のボウルの水に浸けている。つづいて、一昨日ス―パ―で買ったチキンカツ用に、少し多めに刻みすぎて余ったキャベツを片手鍋で炒め、油揚げを加えて味噌汁にする。加えるのは先の昆布水だ。目覚めのコーヒーを飲みながら約40分、我ながらまあまあの手際の良さ。


 笑われるかもしれないが、先日もこんな経験をした。
 深夜、冷蔵庫に入れっぱなしの豚肉が駄目になると思い立ち、残りものの野菜を加えて豚汁を作った。そのとき、大根を薄い銀杏切(いちょうぎ)りにしながら、唐突に生活の中で洗練されていく自分を感じた。あの作業はきちんと集中しないと、きれいに薄く切れない。両肩の力をぬき、腹式呼吸をしながら集中力を高め、包丁を手元に引き寄せるように入れていく。すると、自分でもうっとりするぐらいに均一かつ、きれいに大根が切れる。


 今回、1ヵ月を越えるプチ独身生活を通して、あられもない反復としての生活の正体を体感できた。起きて、食って、動いて、食器洗いと、ときどきは洗濯と掃除をして、また食って、排泄して、寝る。一人だと話し相手さえいない。だが、誰もがいつかは一人に還る。さらには土に還る。だとすれば、生活を豊かにするということは、モノを買ったり、サ―ビスを消費すること以上に、そのあられもない日常の反復をこそ洗練させていくことに求める他ない。日々の暮らしを楽しむことをふくめて、それが本当の生活力だ。


 ぼくらの父親以上の世代の男たちが、奥さんに先立たれるとからっきし弱くなるのは、仕事力はあったけれど、その肝心の生活力が足りなかったからではないか。これからの高齢化時代、今の生活が同じように続いていく保証はない。仕事ばかりにエネルギーを奪われている隙に、奥さんに愛想をつかされるかもしれない。定年を機に退職金を折半して熟年離婚されたり、頼みの綱である奥さんが病気になってしまう危険性だってある。
 

 ある日突然、50、60代で独身生活を余儀なくされたとき、生活力がない自分に気づいても、おそらく手遅れ。その年齢で外食続きだと、高カロリーすぎて成人病が恐い。そうなると、コンビニでカップラーメンの日々になる。生活力を高めるか、カップラーメンの毎日に耐えるか。高齢化社会を明るくしたたかに生き抜く準備が、あなたはできていますか?