身体の痛みをこそ抱きしめる〜少々、東京新聞ラブ❤

「まぁ、マラソンを完走したら、まちがいなく身体はボロボロでしょうね」
 治療院のM先生が苦笑いしながら言う。・・・べつに走り終わってボロボロになる分には構わないんですけど、走る前にボロボロになるのは避けたいんですよねと、こちらも苦笑しながら答える。

 
 2週連続で1回に25キロ走ったせいか、右腰に違和感を覚えた。その翌日、M先生のところへ駆け込んだ際のやりとりだ。先生は、そもそも42キロ超も走ること自体が身体にダメージを残す行為だと、言外に語っていた。
 その言葉にホッとする。同時に、自分の過敏さが恥ずかしかった。


 痛みはむしろ健康さゆえのシグナルであり、そのシグナルに過敏になりすぎることがナンセンスだった。わざわざ自分から42キロも走ろうとしている人間が、それでも「痛みは悪いもの」という前提を握りしめて放さない愚に、ようやく気づかされた。我ながら薄っぺらい健康観だ。
  
 昨年末、東京新聞で読んだ、作家の辺見庸さんの「二つの日常―死生観の揺れと永遠のいま」というエッセイの切り抜きを引っ張り出してみる。近年、入退院を繰り返されている辺見さんは、その文章をこう結ぶ。

生に執着し死におびえる自分をそれとして認め、死という終着点にのみ固定していた視線を「いま」に移す。心の湖の波風をしずめて、”永遠のいま”を一瞬一瞬、惜しみながら生きる・・・。なんだか躰(からだ)の痛みさえ貴重に思えてきた。

 
 やがて老いに抱きしめられれば、走るのはおろか、歩くのさえ億劫になる。そのときは痛みを嘆くのではなく、むしろそれを語り相手とする心の強さが求められる。走ることは、そのための練習だ。