大人の時間(2)土田ヒロミVS四谷シモン対談〜みずからの欠落感をおぎなう行為としての創作 

rosa412008-02-02

 四谷シモンさんの人形の変遷が、プロジェクターで映される度に、会場は、ねっちゃりとした空気がさらに濃くなっていく。
 しかも、その会場に並べられているのは、土田ヒロミさんが80年代に撮影された美しきゲイたちの、夜の街灯に群がる多彩な蛾を思わせるポートレイトの一群。それらを背景に、四谷さんの人形たちが次々とプロジェクターに登場する――。
  
 リアルな陰毛で覆われた局部をさらして観る者たちをこそ覗き込むような、肉感的な白い肌に透けた黒い下着姿の女の人形。あるいは、その半身は皮膚部分がはがされ、その下の木組みを露にする白い肌の少女。最後には、皮膚もない木組み姿で、しかも半身しかないのに顔と足だけは辛うじて皮膚を残す、白肌の金髪女・・・。そう、それらは外見上の年齢にかかわらず、どれもむせ返るような「女」たちだった。2日の夜、東中野ポレポレ坐でのトークショーでのこと。聴衆は老若男女約50名。

 
 ホスト役の土田さんと四谷さんとの、ちぐはぐな対話もかなり笑いを誘った。
四谷さんの人形をしきりに言葉で定義しようとする土田さんに対し、「いいえ」「何も考えてません」と素っ気なく答える四谷さん。そのコントラストが醸し出す笑いが、会場に立ち込める濃密な空気を逃がす、唯一の窓にもなっていた。写真にせよ人形製作にせよ、言葉は二の次、三の次の世界だから、それもまた一興だ。


 この夜、もっとも印象的だったことがある。
子供時代、離婚した母のもとで育てられた四谷さんが、その母が、自分たち子供を育てるために、見知らぬ新たな男の力を借りて生活してきたという、子供には埋めようの無い欠落感のことだ。彼の人形への偏愛には、おそらくその母への屈折した愛憎が横たわっている。
 

 今、高山文彦氏の疾走感にあふれた評伝『エレクトラ中上健次の生涯』(文藝春秋)の世界に引き込まれているだけに、その発見はぼくの胸をズブズブと突き刺した。それも、部落に生れて屈折せざるをえない幼・青年期を持つ男の物語だからだ。そんな隕石(いんせき)大の欠落感が、ぼくにはない。