今川焼きよ、おまえもか

 
 大手町周辺での打ち合わせを終え、六本木へ出て所用を済ませ、麻布十番へ向かう。今朝、奥さんに「六本木に行くついでに、浪速家総本店の鯛焼き買ってくるわ」と話していたから。お店に近づくと、行列はない。平日の午後4時すぎ。そうだよなぁ、こんな中途半端な時間に鯛焼き買うために並ぶ人なんておらんよなぁ、ぼくは一人でそう合点した。


 去年のゴールデンウィーク中、森美術館に奥さんと出かけた際、まず浪速家の鯛焼きで腹ごしらえしてからにしようと立ち寄ったら、2時間半待ちといわれたことはある。1個150円の鯛焼きで、だ。あのときは、たしかに恐るべしゴールデンウィークと肝に銘じた。


「40分待ちですけど・・・」
 えっ?色白の好青年風のお兄ちゃんが、少し眉間にしわを寄せて言った言葉に、思わずそう反応していた。改めて店内を見回しても、そのお兄ちゃん以外、人影はない。妙な間合いの沈黙。ぼくは青山ブックセンターで猟書に費やしていた時間とほぼ同じくらいだろうなぁ、と心の中で反すうしていた。段取りが甘かった、順序を逆にするべきだった、鯛焼きをナメていた。
「・・・そうですか」
 ようやく一言しぼり出して、背中を向けた。そうだ、以前テレビで放送していた近くの人形焼屋さんのワッフルにしよう。ぼくは気持ちを瞬時に切り換えた。約束した奥さんへの手前もあるし、何より小腹が空いていたぼくの口は、もう鯛焼きモードだった。


「ワッフル売り切れ」
 浪速家の前の道を少し上った右側にある、目指す人形焼屋のガラス戸に、そう書かれた白い張り紙が見えた。おいおい、午後4時すぎで売り切れかい。先の浪速家同様、店の内外に人影はない。口の中が乾き、へこんだ小腹の緊張感がゆるんだ。本来なら噛みしめていたはずの鯛焼きの、あの小豆の甘みが頭の中でいっそう増したような気分。少し自暴自棄な衝動が、出の悪いオシッコみたいにちょろちょろと湧きでてくる。


 ふたたび人形焼屋の前の坂道を下ると、角に畳一畳程度の今川焼き屋が目に入る。その瞬間、少し前に頭をもたげた<自暴自棄ジュニア>が、ぼくの内側で横綱・白鳳程度には肥大していた。
 もう何でもいい、とにかく何か買って帰るぞ、このままでは死んでも死に切れんっ!たかが鯛焼き&ワッフルを買いそこねた程度で、そのジュニアは奇妙なほどキレていた。44歳のオジサンが、平日午後の、人気もあまりない麻布十番でお菓子を求めてさまよっている哀れな映像が、喉元あたりにべったりと張り付いている。そんな心境だ。


 60年配の、いかにも人の良さそうな今川焼き屋のオジサンが少し会釈しながら、ぼくに言った。
「ごめんね、今焼いてるのは全部予約の分なの。申し訳ないねぇ」