生き物のうらおもて 

 
 桜が散る頃、生と死は「うらおもて」という感慨が強くなる。

 一斉に咲いて散る様(さま)はむしろ「うら」で、凡庸たる緑葉や枯れ枝の頃こそが「おもて」。漂白の歌人西行の有名な歌を引用するまでもなく、日本人の遺伝子は、古来からそんな死生観を受けついでいる。世代をこえて、この花の下に集う老若男女を目にしていると、そう思えてならない。


「無差別殺人という行動は反社会的だが、青年たちが求めているのはつながりだ。私にはそう思える」 
 先日、東京新聞の紙面批評での、田口ランディさんのコメントにハッとした。その瞬間、ある友人の言葉を思い出したからだ。一昨年結婚した、ひきこもり経験のある30代の友人の言葉。
「今思うと、他人とわかり合いたいという気持ちが強すぎたせいで、当時のぼくは引きこもってしまったのかもしれません」


 ぼくが小学校3年生の頃のことも思い出す。
 仲良しだったS君が、ひとつの事件を起こした。ある女の子に石を投げつけ、その石が彼女のお腹に命中してしまった。ぼくは、Sがその女の子に密かに想いを寄せていたのを知っていたから、なおさら驚いた。自分のしてしまったことに顔面蒼白になり、その場を逃げ出したSを、ぼくはともかく追っかけた。彼は自宅にたどり着くと、その玄関口で声をあげて泣き出した。その様子を見ながら、どう声をかけていいかわからず、当時のぼくはその場に立ちつくしかなかった。


 ・・・・・・それぞれの話を同列に論じるのは暴論、そういわれるかもしれない。
しかし、誰もがそんな「うらおもて」を隠し持っている。自分だって、時と場合によっては、人を殺してしまうかもしれない。そのわきまえ方が、むしろ理性を働かせる。