大澤真幸『不可能性の時代』岩波新書(1)〜現実への逃避という慧眼


 現実逃避とは、あくまで現実からの逃避を意味する。
 だが、大澤さんは、むしろ現実への逃避だという。一見小さなようでいて、それは天と地ほどに違う。やはり、ぼくらが学者に期待するのは、今を生きるぼくらの社会の空気を看破する、こんなコペルニクス的な慧眼だろう。


 大澤さんは、その事例を挙げてみせる。

 最もシンプルな例は、リストカットに代表される自傷行為の流行である。自らの身体の上に生起する直接の痛みは、どんな現実よりも現実らしく、現実を現実たらしめているエッセンスを純化させたものだと言ってよいだろう。世界最終戦争(ハルマゲドン)やテロ、あるいは戦争のような極限の暴力への指向性をもった、宗教的あるいはナショナリスティックな熱狂もまた、「現実」への逃避の一種である。


 なんか、ワクワクする文章。非正規就労の現実に希望を見い出せない若者が、世間の日常を混乱させようと、衝動殺人という凶行に走るのも、大分県の教員採用事件の不正が、長年の慣習の中で「現実」に化けて着実に反復され、その間、人の良識がまるで機能しなかったという点で、おそらく現実への逃避にちがいない。