宮崎駿『崖の上のポニョ』〜現実から飛翔する力


 宮崎アニメの飛翔感が好きだ。加速した飛行機が滑走路からフッと浮きあがる、あの瞬間の感覚。観る側を物語の世界へ引きずり込む力のこと。優れた小説や音楽、演劇や美術品はどれも兼ね備えている。

 
 過去の作品では、それは文字通り、主人公たちが大きな鳥などに乗ることで表現されてきた。それが今回は、主人公が変身し、荒れた海の波頭を疾走する形で描かれている。


 今回CGを一切排したと言われる、アニメーターの覚悟と矜持が、その場面で、圧倒的なスピ―ドと臨場感をもって観る側に迫ってくる。今までの作品で、一番の飛翔感を堪能させられた。
 だって、その場面の後で、少年が海に落ちそうになる場面で、思わず「あっ!」って声出ちゃったもん、六本木ヒルズの映画館で(^^;)。オジサンオジサン、変なオジサンだよ、まったく。うちの奥さん、隣で知らんぷりしてたもん。
 

 あの場面の前後だけで、いったい、何千枚の絵が費やされているのだろう?なんて、余計なことまで考えちゃったよ。でも、できれば、ヒルズのようなドデカイ画面で観てほしい。


 最後の結末について、あれっと思う人も多いはずだ。ぼくもその一人。


 でもね、あれは宮崎監督の、大人たちへの最後っ屁だな。東京新聞の記者コラムで、あの結末を「ご都合主義」と書いていたけど。


 彼は今回、子どもたちに向けて創るんだと公言してきた。映画を観た上でそれを斟酌(しんしゃく)すると、アニメの原点への回帰。もっと言えば、描線と色彩への執着。それがオープニングロールにも凝縮されている。おそらく、子ども達はあの結末をみて「ご都合主義」とは思わず、「ああ、よかった」と胸をなでおろすだろう。


 たとえば、全然ジャンルは違うけど、かつてのブルーハーツが、ハイロウズをへて、クロマニョンズでメッセージ性を排除した音楽を展開しているのと同じ。彼らがビートと歌声に回帰したように、宮崎さんも描線と色彩の饗宴としての、理屈で汚されない純然たるアニメを創りたかったんだと思う。


 だって、ぼくをふくめて、今の大人たちには世の中を変えられない。
 どいつもこいつも「エコ」の大合唱で、北朝鮮並みだし。その付和雷同ぶりには、羞恥心のかけらもない。
 だったら、子どもたちに、現実から飛翔する力を託すほかない。そんな絶望感を、少々間が抜けてる加減が愛らしいポニョに託すところに、宮崎さんの、宮崎さんたるゆえんがある。