西岡常一『木のいのち 木のこころ』(草思社)〜合理化バカ


 法隆寺などの解体修理などに携わった伝説の宮大工。故・西岡常一さんの本を読みながら、何度も唸らされた。その言葉は木だけにとどまらず、人や世の中にまで届き、その上、深く突き刺さっている

 たとえば、「木を長く生かす」という章では、宮大工の世界に代々伝わる「口伝(こうでん)」として、「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」と、「木は生育の方位のままに使え」をあげる。山の南側の木は細いが強いし、北側の木は太いけれども柔らかい。そういう生育場所特有の木の癖を、山で見ながらその使い途や、組み合わせ方を考えるのが、棟梁の仕事だったという。

 今はこの仕事は材木屋まかせですわ。ですから木を寸法で注文することになります。材質で使うということはなかなか難しくなりましたな。材質を見る目があれば、この木がどんな木か見わけられますが、なかなか難しいですな。

 この大事なことを分業にしてしまったのは、やっぱりこうしたほうが便利で早いからですな。早くていいものを作るというのは悪いことではないんです。しかし、早さだけが求められたら弊害が出ますな。

 今は技術の進歩で、ねじれた木でもまっすぐに製材したり、木の性格が出ないように合板にするようになった。しかし木々が元来持っている癖は後で出る。よく乾燥していない木を精密に機械で削っても、すぐに縮むし、まっすぐなのはそのときだけで、ゆがんでしまう。

 癖というのはなにも悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいなもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな。
(中略)
 そして逆に、こんどは使いやすい木を求めてくるんですな。曲がった木はいらん。捩れた木はいらん。使えないんですからな。そうすると自然と使える木というのが少なくなってきますな。それで使えない木は悪い木や、必要のない木やというて、捨ててしまいますな。これでは資源がいくらあっても足りなくなりますわ。そのうえ大工に木を見抜く力が必要なくなってくる。必要ないんですからそんな力を養うこともおませんし、ついにはなくなってしまいますな。木を扱う大工が木の性質を知らんのですから困ったことになりますわ

木のいのち木のこころ―天・地・人 (新潮文庫)

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