行間の強度〜山田詠美『海の庭』(『風味絶佳』文春文庫) 


 何気なく読みすごしてしまう場面にこそ、小説の強度はひそんでいる。


 たとえば山田詠美の短編集『風味絶佳』で、ぼくの一番好きな『海の庭』の、導入部のこんな部分。大雑把に説明すると、主人公の大学生・日菜子の両親が離婚。日菜子と母親が住みなれたマンションから引っ越す場面から、小説は始まる。
 そこに現われた引っ越し屋は、主人公の母親を旧姓の「吉田」と呼ぶ男。一方、母親から「作並くん」と呼ばれた彼は、日菜子をひと目見るなり、「でけえな」と口走り、彼女の気分を損ねてしまう―。
 ちなみに、以下文中の「私」とは、主人公の日菜子。彼女は、母親を真似て、その知り合いを「作並くん」呼ばわりするようなタイプでもある。

「こんなんだったら、おまかせパックにすりゃ良かったのに。吉田、昔からこの主の作業苦手だったのに、自分では、ちっとも気付いてない。変わってねえな」
 そう言って作並くんは、私の手許を見た。
「さっきはごめん」
「何がですか?」
「似てないなんて言って。やっぱ似てる。指先とか吉田にそっくり」
「母のそんなとこに注目してたんですか。だいたい、いつの知り合いなんですか?」
「がきの頃」
「なるほど。で、作並くんな訳ね」
「いや」
 言葉を区切ったので目で問いかけた。
「その頃は、哲ちゃんて呼ばれてた。おれ、名前、哲生だから」

 まず作並が、荷造り作業中の日菜子の指先を見て、母親にそっくりだと言う部分。かつて作並が母親へ過剰な視線を向けていたことと、それを敏感に察知する日菜子の嗅覚が、その行間に織り込まれている。同時に、女子大生に自らの非礼を率直に詫びる男の生真面目さも。


 また、がきの頃は「哲ちゃん」と呼んでいた幼馴染みを、他人行儀に「作並くん」と呼ぶ母親と彼との関係。日菜子の好奇心を媒介に、2人の過去がひも解かれながら話が展開していくことが、きちんと示唆されている。「いや」と言った男が、いったん間合いを取ってみせる感じも意味深でいい。


 一見なんてことない場面のようでいて、じつは読者を引きずりこまずにはおかない。わずか12行の繊細、かつ堅実な行間の牽引力!


風味絶佳 (文春文庫)

風味絶佳 (文春文庫)