石田徹也「僕たちの自画像」(2)(練馬区立美術館)

 展覧会入口にある石田の絵と向かい合ったとき、ハッとした。
 それは「飛べなくなった人」という表題がつけられたもので、ぼくが持っている彼の画集の表紙絵でもある(上写真と同じ)。だから、特に驚くようなことでもない。それでもぼくが驚いたのは、ひとつの偶然が重なっていたから。


 この会場に来るまでのバスの中で、自分が思いつくままに読んでいた文庫本の一節が鮮やかによみがえってきた。

 どれほど強靭で密度の高い(例えば土井さんのような人の)思考でも、思考は視覚的把握の持つ直截性は持てないのではないかということ、

 州之内徹著『気まぐれ美術館』(新潮文庫)の中の「土井虎賀壽―素描と放浪と狂気と」の中の一節。
 この土井という哲学者は、論考に没頭すると、人も寄せ付けない集中力で原稿に向かい、それが一段落すると、各地を放浪し、盛んに絵を描いたという。州之内は、土井が哲学論考の合間に、なぜ、絵に向かったのかに文章で迫っていき、先の一文にたどりつく。
 

 石田の「飛べなくなった人」という絵と向き合ったとき、さっき読んだ、州之内の「視覚的把握の持つ直截性」という言葉が、ぼくには鮮やかに思い返されて、その偶然のインパクトに面食らった。石田の絵は、たしかに言葉では到底追いつかない直截性そのもので、イメージの爆弾めいた力を放っている。
 ひるがえって言えば、ぼくの文章は、本当に言葉でしか到底表現できないものなのか、という反語となり、今度はその刃先をぼくに向けてきた。(つづく)