山田詠美著『A2Z』(講談社文庫)〜衝突としての恋愛

 
 

けれど、思いやりは、


ほんの少し自分を殺すこと。


 夫とは別の、若い彼との恋愛がたそがれ始めた頃の、女性編集者の独白めいた地の文で、「二人の間に期待しかなかった頃に比べると、それが次第に抜けて行くのと同時に、思いやりは増して行く」の後に、その一文がくる。


 「思いやり」といういかにも善良そうな言葉を反転させ、その鈍く光る切っ先を、山田さんは読み手に向けている。以前、映画『エターナル・サンシャイン』のときにも書いたけど、ごくありふれた言葉を、いかに反転させられるのか。それがすぐれた創作物の肝(きも)。


 その一文が暴いてみせるのは、衝突としての恋愛。

好きか嫌いかという感覚以前に、彼にとらわれている。彼に会いに行かなくては、と思う。まるで発情期のようだとすら感じている。でも、そこで求めているのは、体だけではないのだ。自分を隙間なく埋め尽くす、まさに情のような代物。一浩(夫の名前)との長い生活の中で、ひとつひとつ置き忘れて来たものを、私は、別の男を使って元に戻そうとしている。愛だなんて呼べない。こんな自分勝手な欲望。


 そういえば、めいっぱい、お互いの身体と心をぶつけ合っているとき、「思いやり」なんて要らない。ただただ、身体と言葉をむさぼり合えていれば、それだけでよかったでしょう?