長谷川櫂『俳句の宇宙』(花神社)〜そのスケール感覚にひたる

 長谷川さんは、この本で波郷の次の一句に着目している。

霜の墓 抱き起こされしとき 見たり

 
 この句を、散文のように、「霜の墓が抱き起こされたのを私は見た」とか、「私は抱き起こされたときに霜の墓を見た」と読んではならないと書く。それは散文の読み方で、韻文である俳句の読み方ではないからだ。

 この句を読む人は、まずともかく「霜の墓」を思い浮かべて、心の中を「霜の墓」でいっぱいにする。自分がまるで霜の降りた墓原にいるような気持ちになる。
 そのあと、しばらくして――これが切れであり、間なのだが――「抱き起こされしとき見たり」が見えてくる。そこで、ああ、作者はそういう情景を抱き起こされるときに見たのだな、と思う。(省略)「霜の墓」で切れる以上、その上下を主語と述語とか、無理に文法的に関連づける必要はない。そんなことをすれば、せっかくの切れが死んでしまう。


 長谷川さんは、俳句の俳句性は「季語」と「切れ」にあると書く。
 彼は、季語が本来もっていた「場」が時代をへて失われ、世の中からずれたままの「形式」として残存する現代俳句の空虚さを。あるいは、普遍性を求めて欧米詩ににじり寄ろうとした近代化の中で、俳句のもつ韻文性(切れと季語が織り成すことばの小宇宙)をいかに歪めたのかについて、わかりやすく説明してくれる。


 長谷川さんの句集『虚空』から、その「切れ」を含んだものをいくつか。


「籠枕 ころがっている 虚空かな」
「若き日の 無頼放埓 青芒(すすき)」
「鮭の骸(がい) 戦の跡の ごとくあり」


 その視点を手にそれらの句と向き合うとき、初めて俳句のスケール感覚にめいっぱい浸れる。