戸田郁子「うっちゃ通信」09年春号(前半)〜手の感覚

rosa412009-04-06

ぼくが’85年に韓国に留学した際、いろいろとお世話になったのが戸田さんだった。韓流ブームの20年以上も前、OLを辞めて、韓国に留学された戸田さんは、隣国の若者事情を通して、当時はまだ近くて遠かった隣国を、日本に紹介されていた。それが手書きの「ウッチャ通信(トンシン)」。新聞に載るのは「学生デモ」か「民主化闘争」しかなかった当時の韓国に暮らす普通の人々の暮らしぶりを伝えた、素敵な著書が多数あります(文末参照)。
 昨年、ご主人でもある韓国人写真家の柳(リュ)さんの写真展がらみで、来日された戸田さんと20数年ぶりで再会。一児の母となられた今も、当時とあまり変わられていないのに驚かされた。韓国から中国に家族ともども転居され、現在は韓国在住の彼女から、「うっちゃ通信」が届いたので、2回に分けて転載させていただきます

 久しぶりにソウル市内に出かけたら、日だまりの中でケナリ(レンギョウ)の開花が始まっていました。ソウルの郊外にあるわが家の辺りは、市内より2〜3度気温が低いので、花の季節はまだ先かと思っていたのですが、爛漫の春はもう目の前なのだと心が躍ります。 
 黄色のケナリ、白や紫のモクレン、そしてピンクのチンダルレ(カラムラサキツツジ)が一斉に咲き誇る韓国の春は、一年で一番あでやかな季節。甘い香りの中で華やかな色の饗宴に見惚れる至福のときを、私はこの国で幾度迎えたことかと、指折り数えてしまいます。今年の見頃は、4月の上旬くらいになるでしょうか。


 濃い黄色と鮮やかなピンクの組み合わせは、新婦の着る韓服(チマチョゴリ)の色。私もその色をまとって、柳家に嫁いできました。こんな派手な色なんかイヤだとぐずりながら袖を通したけれど、今思えばその色は、新婦だからこその華やぎ。しかし三十路すぎのとうの立った花嫁だったけどなあ……と、苦笑しています。
 野山に新しい生命の兆しが宿る3月が、韓国の新学期。「三一節」の休日を終えた翌3月2日には、全国の学校で入学式が行われます。
この春、わが家でも新しいスタートがありました。息子が全寮制の高校に入り、家を離れたのです。すでに私よりも背が高くなった息子が、誇らしげに新しい制服を着た姿を見て、胸が熱くなりました。


中国の教育、韓国の教育
 吉林省延吉市にある漢族の小学校に息子の手を引いて出かけたのは、9年前の3月。校長先生から「この子のせいでクラスの平均点が下がるのがイヤで、受け入れてくれる担任がいない」と言われ、中国でも小学校は義務教育のはずなのにと、私は唇を噛みました。わが家から一番近いその学校は、延吉市で一二を争う「重点小学校」。ようやく一年生の学年主任が自分のクラスで受け入れようと言ってくれて、ほっと胸をなでおろしました。
 担任は厳しい女性の先生でした。中国語がわからず泣きべそをかきながら通う息子が心配で、授業が終わるのを廊下で見守っていたとき、宿題を忘れた子の頭を先生が教科書で幾度も殴り、その子の大きな目から涙がこぼれ落ちるのを目撃して、私は胸のつぶれる思いがしました。でも中国語のわからない息子には、居残りまでして熱烈指導してくださったおかげで、やがて息子はクラスの平均点を上げる役割を果たすまでになったのです。


 外国から来た子だと言って分け隔てせず、朝礼の国旗掲揚の役割も担わせてくれた中国の小学校で、息子は多くを学びました。子ども同士助け合って勉強することや、先生をまっすぐ見つめて話を聞く態度も身につきました。なによりも中国の友だちとの厚い友情が、その後の息子を精神的にも支えてくれました。
 6年過ごした中国を離れて韓国の中学1年生となり、息子は再びカルチャーショックに悩みました。「なんで韓国の子たちはそんなことをするんだろう」と、憤慨した口調で学校での出来事を話す息子。一方、韓国の高校受験の情報が何もない私は、母親同士の集まりに積極的に顔を出したのですが、成績の悪い子の親など見向きもされない雰囲気に圧倒され、母親同士の教育熱に煽られて、不安ばかりかき立てられました。


 子どもも親も焦りながらの、韓国暮らしの再開でした。そして昨年11月の高校受験で、息子は中国語の特待生として外国語高校に合格。いわゆる進学校です。塾だなんだと大騒ぎしていた子たちのほとんどは不合格となり、今度は私が、お母さんたちからやっかみを言われる立場になり……。韓国の教育の現状について、たっぷりと考えさせられました。
 中国の小学校でも、韓国の中学でも、いつもどん尻からスタートした息子は、場違いな進学校に入ったことを意にも介せず、親元を離れての団体生活が「楽しくてたまらない」と輝くように話します。
日々のご飯作りから解放された私も、息子に背中を押されたように仕事に励んでいます。今年やり遂げようと思っているあれこれを頭に描きながら、前に進んでいくつもりです。


1年ぶりの中国旅行
 旧正月の直後、一年ぶりに家族で中国に出かけました。各々が別の目的を持って。
息子はもちろん、懐かしい友との再会が楽しみ。もう鼻血を出すほど遊びまくり、「次はハーバードで会おう」なんて約束を交わし……。小学生のときに見知った幼い顔が、皆ぐんと大人びており、「これからこの子たちが世界に羽ばたいていくのだな」と、私はまぶしい思いで見つめました。
 柳は、南京にある別の大学から、来学期から授業をしてほしいとオファーを受けました。冬休み中で学生のいない大学に出かけてみたら、開いた口がふさがらないほど広大なキャンパス。「また自転車買わないといけないな」なんて柳は言いながら、嬉しそうです。中国で学生たちを教え始めて10年。初めに比べれば待遇も格段によくなり、今ではどこの都市に出かけても教え子がいて温かく迎えてくれることに、やり甲斐を感じています。
 

 私は、20年来の友との別れがありました。仏門に入るため旅立つ彼女の方は、すべてのしがらみを捨てて自ら望んだ道を行くのだとさばさばした表情なのですが、彼女が仏教に傾倒していく過程を見守ってきた私は、遙か四川の山奥の寺に行くことを選んだ彼女の心情を思いやると、なんとも痛ましい思いになりました。
 楽しいことも、もちろんありました。長いつきあいになる朝鮮族の娘が、昨年住み慣れた東北を離れて江南の蘇州に移り、彼女の婚約者と一緒に一泊二日で蘇州郊外の水郷を旅行したのです。私を「オモニ(お母さん)」と呼ぶ娘とは、この娘が小学校三年生のときに出会いました。今ではすてきな淑女となり、来年には結婚します。この娘と、時間に追われずゆっくり話をすることができたことが、今回の私の旅の一番の喜びでした。
 

 それにしても、中国旅行に出かけるたびに食べ過ぎてしまう私たち……。やっぱり、世界で一番おいしいのは中華料理だと、家族で声を合わせます。目先のことしか見えなくなりがちな日常を脱して中国に出かけると、心からのびのびします。生活者ではなく旅行者だということも、気持ちを楽にしてくれる要因でしょう。
 言葉がよくわからないときは恐ろしいとしか思えなかった中国人同士の怒鳴り合いも、内容がわかればそこに人情味すら感じます。そして、日々を堅実に生きる人々を間近に見ることで、忘れかけていた手の感覚を思い出します。煉瓦を積んだり、土を掘り起こしたり、手でごしごし洗ったり……。日々の暮らしは、手を使ってやる様々な仕事で成り立っており、それはどれも等しく大切なのだということを、なぜ私は忘れていたのかと自省するのです。(つづく)


ソウルは今日も快晴―日韓結婚物語 (講談社文庫)

ソウルは今日も快晴―日韓結婚物語 (講談社文庫)