川端康成『舞姫』(新潮文庫刊)(1)


 川端作品の中でも、この『舞姫』は完成度が高い。この人は「ひらがな」がすごい。少し長くなるが、抜粋引用してみる。時代は終戦後、米軍のジープが皇居周辺を右往左往していた頃。
 以下は親子4人の会話で、矢木が学者で父親、波子が元花形バレリーナで母親(資産家の娘)、高男が長男(学生)で、品子が長女(バレリーナ)。矢木が、皮肉屋の自分から、妻の波子が別の男に心を移しつつあることを、子供たちの前でなじる場面。二つの名前の( )書きは、スチャラカが挿入した。

(矢木)
「うん、あまり言いたくはないが、戦争の前は、うちも、まあ、ぜいたくに暮らしていたな。しかし、ぜいたくであり得たのは、お母さんで、ぼくではなかった。ぼくはぜいたくな思いをしたことはなかったよ。」
(品子)
「だって、うちが困るようになったのは、なにも、お母さんのぜいたくのせいじゃないでしょう。戦争のせいですよ。」
「無論だ。そんなことを、言ってやしないよ。このうちのぜいたくな暮らしのなかでも、ぼく一人は、心理的に、貧乏暮らしをして来たという話さ。」
 高男はつまずいたように、
「はあ・・・・・・?」
「この点では、品子はもとより、高男も、お母さんのぜいたくの子供だよ。富める三人が、貧しい一人を養って来たわけだろうな。」
「そんなことおっしゃると・・・・・・。」
 高男はどもった。
「ぼくは、よくわかりませんが、なんだか、お父さんにたいする尊敬が、傷つけられるようですね。」
「ぼくが波子の、家庭教師をしていた、その時からの歴史を、高男は知らないからね。」
 波子は矢木の言葉に、いちいち思いあたるものがあった。
 しかし、いつになく、夫がこんなことを、なぜ言い出したのか。波子にはわからなかった。うちに積もった憎悪を、吐き出されたかと聞こえる。
「お母さんは、二十年、ぼくに傷つけられたと思っているかもしれないよ。だが、これもどうかね。もし、お母さんが思うようだと、品子も高男も、生まれてきて悪かったということになりやしないか。二人で、そのことを、お母さんにわびるか。」
 波子は魂の底まで、冷えていくように感じた。


 小説終盤の、親子4人のなんとも寒々しい会話を通して、戦後社会の亀裂と破綻がたくみに描かれている場面だ。生来の皮肉屋であり、子供たちの前でさえ、その露悪的な言動も少しもいとわない矢木の人物造型がうまい。また、全編を通して、その描かれ方があいまいな分だけ、こういうエグイ台詞がいっそう粘っこい通低音のように作品全体にひびいてもいる。すべては筆者の計算ずくだろう。


 先の引用部分だけ読むと、矢木という存在に戦後の虚無を感じる人がいるかもしれないが、この筆者はそんな単純な人物描写はしない。小説全体の背後に陰のように潜んでいて、時おり上記の会話みたいに、ねばねばした情念を噴き上げる。それは虚無というより、もっと獰猛で執念ぶかく、むしろ妖気と呼ぶにふさわしい。


 その妖気を、筆者は観念や抽象的表現ではなく、こういう日常会話の、ひらがなを通して描こうとする。
 ひらがなのほうが、輸入品である漢字が醸し出す観念などから遠く、むしろ生身の私たちの肉体に近くて、親しいからだ。実際に頭ではなく、読む者の皮膚にじかにまとわりついてくるような効果を上げている。
 こういう不気味なひらがなの使い方に、川端康成の真骨頂がある。(つづく)