被爆ピアノが残してくれたこと(前編)


原子爆弾の投下を刻み込んだ一台 


 製造番号18209。1932年に作られた日本楽器製造(現ヤマハ)の、1台のアップライトピアノがある。その鍵盤数は現在主流のピアノより3つ少ない85。かつて白かった象牙製の鍵盤は、すっかり黄ばんでいる。ピアノの上蓋をひらけば、鍵盤につながるピンが錆びていて、黒いボディにはガラスの破片が突き刺さった跡が無数に残っている。
 それらの傷は、第二次世界大戦中の1945年8月6日午前8時15分、人類史上初めて、米国軍によって広島市に投下された原子爆弾によって刻まれた。当時、同市には約35万人がいて、そのうちの約14万人が、原爆投下によって同年12月末までに死亡したと、広島市は推計している(誤差±1万人。図録『原爆の絵』岩波書店刊より引用)。 
広島平和記念資料館には、爆風と熱線で焼けてねじ曲がった鉄骨や、男女の区別もつかないほどの大火傷を負った人の写真などの展示があり、放射能の影響でがんを発症して亡くなった少女の軌跡など、原子爆弾が招いた惨禍が静かに示されている。
冒頭のピアノも、その出来事を全身に刻み込んでいる。
広島市内で調律と修理を手がける、矢川ピアノ工房の矢川光則(みつのり56歳)が、その被爆ピアノと出会ったのは2005年7月。所有者のミサコさんという女性から相談をうけた。原爆投下からおよそ60年後のことだ。
 当時78歳のミサコさんは、矢川が古いピアノを修理して販売する傍ら、その一部をピアノのない途上国に寄付しているという記事を読んで、電話をかけてきた。
「今後、私の身に何かが起きた場合、ピアノのことが気になります。私が死ねば、ただの古ぼけたピアノとして処分されてしまうんじゃないか、と。できれば、音が鳴るように直してもらい、どこかに寄付して活かしてください」
 爆心地から約1・8キロ、ほぼ全部の住宅が焼けた地域で、ピアノが残っていること自体が奇跡的。持ち主から被災時の話を直接聞けたのも、矢川自身初めてだった。


「ピアノは生き物」
 原爆投下時、ミサコさんは17歳。彼女は兵器工場に動員されていたため無事だったが、自宅は大きな被害をうけた。家屋は奇跡的に倒壊を免れたが、彼女が演奏家になる夢を胸に毎日練習していたピアノは、爆風で飛ばされたガラス片が突き刺さった。原爆投下から9日後、日本は連合国軍が求めるポツダム宣言を受諾。戦争が終結した2日後、子どもたちにせがまれた彼女が、ひさしぶりにピアノを弾いていると、自宅に大きな石が投げ込まれた。「戦争に負けて、日本がこれからどうなるかわからんときに、ピアノなんぞ弾くとは、一体何を考えているんじゃ!」と、近所の人から怒鳴りつけられた。それから、ミサコさんはピアノに触れることさえためらわれたという。
 老年になった今、戦後約60年間手元に置いてきたピアノを、勇気をもって手放す決心をした彼女の気持ちが、矢川の胸に何より強く響いた。彼女の自宅に出かけてみると、その古いピアノは、風通しのいい部屋で大切に保管されていた。購入時の値段は約600円。500円もあれば、一戸建ての自宅が手に入った時代に、当時4歳のミサコさんとお姉さんのために、父親が買ってくれたもの。戦後、再塗装を行ったそうだが、ピアノの裏側などに埃がたまることもなく、きれいな状態だった。
ピアノは生き物なんですよ、と矢川は語る。
「人間も一人一人顔や姿が違うように、ピアノも一台として同じものはない。ピアノを見れば、その持ち主の扱い方や人柄までわかります。このピアノは、原爆投下後を生きてこられた、まさにミサコさんの分身だと思いました」