佐藤可士和さんの慧眼(けいがん)


まさに今年、いろんなことが急激に変わりましたよね。若い人はすでに出来上がっていた日常を壊していく。車も酒も要らない。貧しくても良いと考える。社会から生活を見るのではなく、生活から社会を見下ろす視点です。


 あるニュースレターで目がとまった佐藤さんの言葉に、ウッとなった。とくに「社会から生活を見るのではなく、生活から社会を見下ろす視点」という部分。その象徴として、ぼくは秋葉原の無差別殺傷事件を思い出す。学歴競争に敗れ、女の子にも持てず、自慢するような仕事にもつけなかった彼が、それでも社会を見下ろす視点を持てたのは、膨大な情報量による全能感だったように想像する。


 世界中のどこにでもアクセスできて、知りたいときになんでも知ることができるかのような情報環境が、たとえば、高層ビルから街を行き交う蟻のような人々を見下ろすような錯覚を、ぼくをふくめて多くの人たちにおこさせている。時おり目にする、2チャンネルの空間で取り交わされている会話にも通底する、世の中全部に舌打ちするような空気感とかね。


 ただし、それはバーチャルな鳥かごでしかなくて、実際には社会の動きからはすっぽりと疎外されている。そんな二重底みたいな関係が、世の中にできあがりつつある。時おり、暴発する怒りが凶悪な事件となって、その二つの世界を一瞬つないでみせるのだけれど、その距離は一向に縮まらない。それほど隔絶してきつつある。その背後には、若い人たちをそこに追いやった大人たちの世界があることはいうまでもない。


 いまどきの神器が、液晶テレビやケータイ、ipodやアイフォンといった情報機器や端末だという現実とも、それは気持ち悪いぐらい呼応している。