内田百けん・ちくま日本文学(筑摩文庫)

 ああ、こういう人生の愛し方があるのか。
 中学生の頃、エゴン・シーレの、あのグロテスクな自画像を観てそう思った。自分の醜悪さと徹底して向き合おうとする強固な意志、それは当時、自己反省の目立つ日記ばかりを書いていたぼくには、反省癖を高度な芸術にまで高めた達人に見えた。
 それと同じことを、40代も半ばをすぎて出会った内田百けんの随筆、とりわけ借金をめぐる彼の文章に見つけた。

 お金に窮して、他人に頭を下げ、越し難き閾(しきい)を跨(また)ぎ、いやな顔をする相手に枉(ま)げてもと頼み込んで、やっと所要の借金をする。或は所要の半分しか貸してくれなくても不足らしい顔をすれば、引っ込めるかもしれないから、大いに有り難く拝借し、全額に相当する感謝を致して、引下がる。何と云う心的鍛練、何と云う天の与え給いし卓越せる道徳的伏線だろう。宜(むべ)なる哉(かな)、月月の出入りを細かく勘定し、余裕とてはなけれども、憚(はばか)り乍(なが)ら借金は致しませぬ事を自慢にしている手合(てあい)に君子はいないのである。君子たらんとするもこの手合には、修養の機縁が恵まれていないのである――
                        「無恒債者無恒心」より抜粋


 ちょっとした触りだが、地下鉄の車内でここを読んでいて、思わず笑い声をもらしてしまって慌てた。車内で百けんの随筆は危ない。これは『新・大貧帳』に収められている。


 あきらかに借金することで遊んでいる。おもしろきこともなき世の中を戯れせんとや生まれけん、である。趣味や道楽に遊ぶのはやさしいが、借金でなかなかこうは遊べない。生まれた瞬間から日々死に向かっていくしかない人生の、こんな愛し方があるとは恐れ入った。