89歳雀右衛門丈、2年ぶりの舞台

 日常ふいにひとつの流れがおきることがある。
 たとえば、ネットで数日前ちらっと眼にして気になっていた古い本が、出先で偶然に入った書店で目に留ったりする。そんな偶然のような必然の流れがおきるときは、必ずそれに乗っかると決めている。そこで逡巡しても、いいことはあまりない。

 
 歌舞伎座の新春公演に雀右衛門丈がひさびさに出演されると、友人Kさんから聞いていた。数年前、ホテルオークラのラウンジで、1時間半ほど取材させていただいて以来、腰痛を発症されて、一度も彼の舞台を観られずにいた。


 週末の幕間席でも観に出かけようかと話していたら、元旦初日から体調不良で休演。数年来の腰痛があまりかんばしくないらしい。だが新聞記事を読むと、当座は代役を立てるが、本人の体調が戻れば出演もという書き方に、彼の強い執着心が感じられた。


 ところが、今月もすでに19日となり残りは8日。
 改めて今朝、先のKさんに様子を尋ねるメールを出したら、今月は無理かもと返事がきた。その約3時間後、Kさんから携帯に着信。「今日の午後出られるらしい、これが最後かも・・・」と知らせてくれた。今日出て体調を崩されたら、本当にこれが最後かもしれない。そう思うと、この流れには乗るしかない。


 演目は夜の部一幕目「春の寿(ことぶき)」。約20分の踊りなのだが、約17分は若手2人の踊りで、残り3分ほどで雀右衛門丈登場。すかさず「京屋!」と威勢のいい掛け声がかかる。両脇を黒子2人に支えられ、右前に侍従侍のような役者がさらに一人はべっている。
 結局、雀右衛門丈はぴくりとも動かなかった。
 女形の衣装はカツラをふくめて重いもので60キロ超ともいわれる。腰痛に苦しむ89歳にすれば、衣装をまとって座るだけでもかなりの覚悟がいる。最後は先の侍従侍が、雀右衛門丈の代わりに金色の扇子を開き、右足を客席に向けて付き出して小さく見栄を切ってみせて終了。


 まるで動かない身体を人前にさらしてでも舞台に立つ。
 それが役者としての業(ごう)なのだとすれば、幕が下りた瞬間、女帝役だった彼の胸には、いったい、どんな思いがよぎったのだろうか。それを良しとする歌舞伎文化とは何か。