赤木明登(あきと)著『美しいこと』(新潮社)
その装丁とタイトルの、一見ミスマッチなたたずまいに、「秘するが花」といわんばかりのセンスがある。まっ、レコードのジャケ写買いみたいなもんですな。ただし、正直に白状しておくと、以前出かけたあるギャラリーで、赤木さんの『美しいもの』を読んでいて、漆塗り作家として本物を追いもとめる真摯な姿勢は知っていた。
ぼくにとっては、ことばの宝石箱のような一冊。
そのうえ、時おり、見えない画鋲(がびょう)みたいにチクチクと手や足の指を刺されたりするからやっかいだ。いや、M体質だから、むしろそれがちょいとよかったりして。
たとえば、北ドイツの靴職人をたずねた帰り道、赤木さんの頭にはこんな言葉がうかぶ。
人の手が、機械のマネをしたように、きちっとものをつくる。上手になりすぎると、技術が見えすぎてしまって、作られたものがつまらなくなってしまう。けっしてヘタがいいと言っているんじゃない。技術が見えるのは、小さな自己表現にすぎないと思うのだ。
あるいは、染色家の望月通陽さんとの往復書簡の中から、こんなくだりを抜き書きしてみる。
僕は、人が何かを作り出すときの苦しみが好きです。迷っている姿がいいなと思います。美しいものを作りたいなと思いますが、美しいものは、ただ美しいだけのものではありませんよね。
書にしろ、文章にしろ、器にしろ、彫刻にしろ、人間が手にかけるものはすべからく、その人の持っている醜さや嫌らしさまでもが現れてきます。ただそれだけで終わるなら、それはとるに足らないつまらないものですし、やっていることは排泄行為と同じです (赤木氏)
赤木さんの御手紙の揚げ足を取るようでわるいけれど、自分の醜さや嫌らしさが現れるほどの絵はまだかけない。いや、充分に醜くて嫌らしい、って言われたらそれまでだけど、自分ではまだ絵筆も彫刻刀も、それをあばく所まで、こわくて、力もないから、降りてゆけないのです。
(中略)
大袈裟(おおげさ)に言えばようやくつかんだ醜さ、嫌らしさを普遍に近付けたなら、その時こそ、仕事が自分を一人前にしてくれた、と言えるのでしょうね。 (望月氏)
嫌らしい、あるいは醜い自分と取っ組み合わないと、美しいものには届かない。
まだ半分ほどしか読んでいないけれど、この本には、さまざまな分野の創り手たちが、赤木さんの問いかけに対して、とても率直にその試行錯誤や葛藤を語っている。そこで吐き出される嫌らしいものや醜いものはそれゆえに、すでに美しい。
- 作者: 赤木明登,小泉佳春
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/04/01
- メディア: 単行本
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