小田嶋隆さんの「ipad」への視点(日経ビジネスオンライン)

 コンピュータとのかかわりは必要最低限に抑えたい、近ごろ、そう気をつけている。ネットの情報はタダかもしれないけれど、それを見るためについやす時間はタダじゃない。ネットサーフィンに1時間を割くなら、その半分は本を読んだり、ボーッとする時間にあてたいからだ。


 その延長線上で、ツイッターとか、ipodiphoneには近寄らないでおこうとひそかに思っていた。情報端末がデジタル全盛時代の三種の神器になりつつある今、情報は中毒性がきわめて高いことによる。


 そんなときに、小田嶋さんの「ipadは、本棚なきコトバダイバーを生む」と題するコラムを読んだ。わが意を得たりと思うところと、あれれ・・・と思うところが両方あった。


 前者は、以下の部分。
「検索や、記録という、本来なら脳が担っているはずの能力を、外部のメディアに委ねるということは、人間の能力をアウトソーシングするということで、視点を変えれば、人間の無能力化なのだ。とすれば、クルマに乗る人間が脚力を失うのと同じように、デジタル書庫を手に入れた人間は、何かの能力を喪失するはずだ」


 まずは、いたずらに新しモノ好きの国民性。それにこの国のメディアは、広告出稿のからみもあってか、新たなものの利点だけを強調し、そういった問題点については後出しジャンケンのように、したり顔で後から指摘する習性がある。


 一方、後者はこの指摘。
iPodがもたらした最大の功績は、実は、スペース効率だった。さよう。どう置いても邪魔で、どう並べても重く、常にカオスであり続けたCDコレクションが、まるごとハードディスクに格納できたというこのことが、私にとっては最も偉大な達成だった。(中略)おそらく、携帯書庫を装備した読書家は、利便性とスペース効率を獲得する代わりに、何かを失うことになる。
 それが、何であるのかは、まだわからない。わかったとしても、言葉で説明するのは難しいだろう。失われるものの正体は、おそらく、『失ってみるまで自分がそれを持っていることに気づいていなかった何か』だ。」


 小田嶋さんが、失うと危惧しているものについては、このコラム全部を読めば、だいだい察しはつくはずだ。そして読んだ本の整理に困っている現状を考えると、情報端末の利用については、わたしも少々考えなおす必要がありそうだ。