〜オジサンの「林間学校」(1)

 

 思い切って、畦道(あぜみち)に寝転がってみた。
 仰向けになった視線の先で木々の緑が暗く沈み、青空がより明るく見える。力が抜けると、汗まみれの身体が、そよ風により敏感になるのがおもしろい。


 7月10日(土)の午後1時半すぎ。長袖シャツがびっしょりになっているので、背中もドロドロになるだろうが、もう構わない。とにかく身体を横たえたい気持ちが勝ってしまった。炎天下の下、畦に植えた大豆の周りで伸び放題の雑草と、草刈り鎌片手に奮闘していたせいだ。


 軍手をぬぐと、右手薬指の第二関節の脇腹あたりの水ぶくれに気づいた。
 ひさしぶりのせいか、鎌の握り方の加減がわからず、終始強く握りすぎてしまっていた

 ふたたび目を閉じてみる。
 田んぼを巡っている用水路の水音、風にそよぐ青田の苗がこすれ合う音、ほととぎすやセミの控え目な鳴声。いくつかの音がおだやかに流れ込んでくる。
 オジサンの林間学校、と呼ぶにふさわしい時間と場所に、ぼくはよりいっそう脱力し、そこに全身をぷかりと浮かべてみる。


 ふいに思い出されたのは、白のランニングシャツと半ズボンの頃。
 ちょうど青田を見下ろせる線路ぞいの土手に、ぼくたちは泥だらけの身体を投げ出し、日光浴で身体の泥を乾かそうとしていた。夏の強い日差しで泥が乾けば、また、新たな遊びを始めるための小休止。
 住宅造成途中の川端でのフナか、アメリカザリガニ釣りの途中だったろうか。あるいは、田んぼで捕まえたカエルの口に小型の爆竹をくわえさせての爆破遊びの最中だったか。


 強い夏の日差しに目を固く閉じながら、ぼくたちは終わりのないバカ話に時間を忘れていた。無邪気で残酷で、そして無恥で無知だった。あれから40年前後が過ぎて、ぼくはふたたび汗まみれで、田んぼのあぜ道に寝転がっていることになる。


 その間と言えば、多少の浅知恵がついた程度で、たいして代わり映えしていない自分が可笑(おか)しい。思えば、緊張しいのせいか、いつも力みかえって試行錯誤しながら(失敗することのほうが多かったけれど)、無用な傷ばかり心や体につけてきた気もする。(つづく)