マルタン・プロヴォスト監督「セラフィーヌの庭」(岩波ホール)

 なんとも不条理だな――昔、ユトリロの展覧会を観終えてそう想った。
 貧しさの中で絵を描きつづける中で、彼はあの「白の時代」ともいうべきシュールな風景画を編み出した。ところが、それがあるとき高く評価されて経済的に豊かになり、多彩な色を使いはじめると、途端に絵がつまらなくなる。世間の当時の評価は知らないが、両方を比較すると、経済的な成功後の一連の作品は、ぼくにはただの騒々しいだけで、空っぽなものに見えた。
 人生塞翁(さいおう)が馬(うま)、というやつ。


 この映画の舞台はフランスの地方都市。未婚で中年の掃除婦として働くセラフィーヌ(実在の人物らしい)は、お世辞にも美人とはいえず、新人の関取めいた身体つきで、友達も少ない。彼女が趣味で描いている絵が、あるとき、ドイツ人美術評論家の目にとまり、彼女は掃除婦の人生を抜け出し、絵を描くことにだけ専念できる生活を手に入れるのだが――。
 

 世間に認められようが認められまいが、セラフィーヌのように描かずにはいられない人間が絵を描いている。その過程で、己のいのちを存分に燃えたぎらせているかどうか、だけでしかない。
 彼女が好んで描いた燃え盛るような草花は、セラフィーヌ自身が映画の中でもコメントするように、どこか凶々(まがまが)しい怖さをも併せ持っている。それだけでじゅうぶんだ。


 重そうな身体でよじ登った大樹と交歓したり、その三段腹をものともせずに素っ裸で小川と戯れたり、差し込む光の加減で井戸水に入れた手が見せる変化に我を忘れそうになる場面にも、それは表現されている。どこか照れくさそうに、自分の部屋の近隣の人たち一人ひとりに、かわるがわる作品を見せる場面は、とても愛くるしい。
なにより、主演のヨランダ・モローの存在感がすばらしい。


 映画全体を観客にゆだねるかのように、心地よさそうな風が吹きわたる最後の淡々とした長回しの場面は、いつか自分の文章でも拝借してみたい。