「君」と「様」から考える

 ブーメラン効果という言葉は、因果応報めいたマイナスのニュアンスで語られることが多い。でも、人によってはそうじゃないこともある。


 先日、ある経営者の方と夕食をご一緒した。老舗料理屋の坪庭が見渡せる奥の部屋でいただいた松阪牛も美味しかったが、それ以上に印象に残ったことがある。


 「君」と「様」についての話。
 彼が出版した自著を全社員に配る際、それぞれに裏表紙に「謹呈」と前書きし、ひとりひとりの名前をつづり、新入社員から役員にいたるまで「様」とつけた。


 そりゃあ、ぼくだって新入社員にまで「様」というのもどんなもんか、という気持ちもありましたよ。それでもね、それを受け取った社員や、その家族、さらには親戚の人たちがね、どう思うかと考えるとね、そりゃ社長の直筆で「様」書きのほうが、だんぜん喜ばれるわけでしょう。そしたら、やはり「様」だなと考えたんですよ。


 250人近い社員がいる会社だ。何も書かずに配る人だっているだろうし、ひとりひとりの名前まで「謹呈」書きする人もいるだろうけれど、そこで「君」と「様」について逡巡した後で、上記のような考えで「様」書きする経営者は、けっして多くない。


 ぼくが率直にそう伝えると、いやいや、それがね、ひいては経営者である自分のためなんですよと彼は言って、両頬をおだやかにゆるめた。
 照れではない。経営者である自分と、社員や取引先や顧客とのつながりを、まるでブーメランの軌道のようなダイナミズムとしてとらえる感性こそが、彼のスタイルだということをぼくはよく知っている。


 対人関係をどうしても「一対一」で考えがちなぼくは、なおさら、この「ブーメラン効果」話にグッときてしまった。そこには目の不自由な人たちのために、テレホンカードの端に空けられた小さな窪(くぼ)みのように、とてもささやかだけど、他者への繊細でやわらかな想像力がある。
 大人である、とは本来そういうことなんだろうな。