服部文祥著「サバイバル登山家」(みすず書房)

サバイバル登山家

サバイバル登山家

 ひさびさにヤバい映像を観た。TBS情熱大陸で、服部が猟銃で仕留めた母鹿をその場でさばき始めた場面。それを野蛮と目を背ける人たちも多いだろうが、それじゃ、スーパーで売られている鶏肉や豚肉を買うのはなんで平気なんだろうか。

 
 山に入るとき、玄米以外の食料を持たず、カエルや川魚を自ら狩猟し、キノコや山菜を採取して腹を満たす。それがサバイバル登山家・服部の流儀。もちろん、それは就寝中に狐に食糧を横取りされるリスクとも背中合わせだ。

 まだ「サバイバル登山家」を読んでる途中なのだが、ぼくはすでに何度「はぁ〜」と溜め息をつき、「カッコいい」と感嘆したことだろう。

岩魚は一尺三年といわれる。僕の仕掛けに食いついて暴れている岩魚も、この渓で生まれこの渓を上下しながら、三度の夏に流下してくる虫を食べ、三度の冬を淵の底でやりすごし、大きくなってきた岩魚である。その岩魚が今、僕がハリを仕込んで流したイモ虫に食いついたのだ。(中略)
 

 岩魚の口に引っかかっているのは僕の意志だ。水中から人が住む地上に岩魚を引きぬいて、殺して食べるという意志である。仕掛けの先端で不規則に躍動する岩魚、イトと竿を挟んで反対側の端には僕がいる。予測不能な岩魚の動きを竿のしなりで受け止めながら、微修正を加える体に、小さな命を獲得する興奮が膨らんでいく。一方的な弱肉強食。それが生きるということだ。


 意志と小さな偶然が重なり合って僕はここにいる。複雑な迷路を辿るようなその行程を説明するのは難しい。だがその結果として今、竿とイトで二つの命がつながっている。魚と自分をイトでつなぐことで、釣り師は自分の命を魚に映し出している。ロボットに岩魚は釣れない。岩魚の生命感は僕が生きている証しなのだ。

 ・・・・・・これほど端的、かつ奥行きある文章を本人に書かれてしまったら、文章屋のぼくは、いったい何をどう書けばいいんだろうか、と不安になる。
 

 まっ、今さらジタバタしても始まらない。
 そう開き直ろう。取材対象と並走しながら、本人も気づかない細部をできるかぎり誠実に拾い集め、その細部の集積を通し、陰影をもってその人物と時代背景をつなぎ合わせ、読者の五感を刺激しつづける濃密な世界を描き上げるしかない。