野地秩嘉著『エッシャーに魅せられた男たち』(光文社知恵の森文庫)

 何かにたぶらかされる人間を描いてみたい。40代に入った頃から、漠然とそんな夢をもつようになった。きわめて常識的な人たちから見たら、そんなものに、なぜ、そんな時間や大金を費やしたの?といった類の人たちのこと。だから、吉祥寺のビレッジバンガードで野地さんの同書を見つけたときは、ああ、さすがだなぁと思いながら中身も見ずにレジに向かっていた。


 あの騙し絵めいたエッシャーの版画に魅せられた3人の男たちの軌跡を追ったノンフィクション。1980年代のジャパンマネーが海外の有名絵画を法外な金額で買い漁る前、エッシャーの約800点のコレクションを7億円で買った日本人を軸に、物語は展開する。


 無口かつ偏屈で、家族にもそっぽを向かれ、生涯一組の夫婦しか心許せる友人を持たなかったエッシャーの人生。筆者の野地さんをふくめ、その作品群に魅了された男たちとの見えない絆が淡々とたぐり寄せられていく。
 

 週末の朝、南窓の和室に寝転がり、強い日差しの中でごろごろしながら読むには最適の本で、これを読み終えたとき、ふいに昔の流行歌の一節が思い出された。

「馬鹿馬鹿しい人生より、馬鹿馬鹿しいひとときがうれしい」

 当時はまるで歯が立たなかったその一節が、40代後半になって、ようやく少しだけ呑み込めた気がした。


 生活の正体が飯くって働いてクソして眠ることの際限なきくり返しで、人生がその単なる集積だとしたら、すくなくとも僕自身は、何かにたぶらかされることもなく、ただひたすら損しないように失敗しないようにと100歳まで生きて、人生を台無しにしてしまうことだけは避けたい。

エッシャーに魅せられた男たち 一枚の絵が人生を変えた (知恵の森文庫)

エッシャーに魅せられた男たち 一枚の絵が人生を変えた (知恵の森文庫)