本棚整理

 ああ、これ、いい本だったなぁとは思うのだが、具体的にどこが、どうよかったのかが思い出せない。情けないのだけれど、そんな本が意外と多いことに気づいた。仕事部屋の大掃除で最初に手をつけた本棚でのこと。


 たとえば、詩人・長田弘著『一人称で語る権利』という随筆をめくると、「一人ひとりの側から」という表題の次のような一節に目がとまる。

平均値にたよってものをかんがえ、一々の事実の語るところのもの、一人ひとりのちがった生きようがになっているものを落っことしてしまえば、平均的には理想的だけれど、たいていは惨憺たるものというようなありようを、みすみす甘受しなければならなくなるでしょう。

一人称で語る権利 (平凡社ライブラリー)

一人称で語る権利 (平凡社ライブラリー)


 あるいは、辻信一著『スロー・イズ・ビューティフル』の巻頭にある、こんな下りに目を覚まされる。

川口によれば、いのちはおおもとのところでは無目的で、無方向だ。人類だけが自分を特殊な生き物だと思いなして、あたかも生きることに目的があり、方向があるかに思い描く。だが、さまざまな生命が生かし合い、殺し合ういのちのコミュニティでは、めぐりながら、しかしどこに向かうというのでもない。そこにただあって、今を生き、目的なく営み続けるのみだ。そこには終わりも始まりもない。

スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化

スロー・イズ・ビューティフル―遅さとしての文化

 一方、本好きにとっての本棚は、セルフヌードやレントゲン写真めいていて、誇らしくもあり、恥ずかしくもある。それらによってワクワクさせられた物語や、物事の新たな見方を教わったものもあれば、その程度かと自分の限界をもおのずと映しだすからだ。そのくせ、個々の本の細部はたいてい忘れてしまっている。それら細部にこそ、当時の自分の何かしらの断片が見つけられるはずなのに。
 振り返れば、今まで新たな本を探すことばかりに執着してきたが、新年は本棚に残る本を読み返しながら、人生の棚卸しをしてみよう。