荒川登美惠 告別式

 本日は、親族の皆様には遠くは九州から駆けつけていただきまして、ありがとうございます。近隣の皆様には、昨夜にひきつづき多数ご参席いただきまして、ありがとうございます。


 一昨日の朝、父から突然の電話を受けて、新幹線に飛び乗ってから、まるで夢でも見ているみたいな3日間でした。当日の東京は、3月には珍しく雪が降る寒い日でしたが、新幹線が浜松を過ぎる頃から少しずつ晴れ間がのぞき、ああっ、晴天の日に逝ってくれたんだと思うと、少しホッとしました。


 新大阪に着くまでの間、車窓の風景をぼんやり見ながら、私は子どもの頃から、母にまつわる出来事をひとつずつ思い出していました。すると、どの光景でも母親の笑っている表情が浮かび、その笑い声がはっきりと思い出されました。


 電話で話しながら、私が母の言葉の揚げ足をとってからかうと、受話器の向こうで「アンタなぁ・・・・」と、よく言葉に窮していました。それは少し怒っているようでもあり、あるいは、息子からいじられて少し喜んでいるようでもあって、その言葉がその声音とともに、耳元にはっきりとよみがえってきました。母の存在をとても身近に感じられたことで、私は少し落ち着きを取り戻すことができたのです。


 その一方で、母の遺体の前で、父から初めて知らされたこともあります。それは母が若い頃からリウマチを患っていて、そのために服用した薬の副作用で、心臓が弱くなったこと。それで、あらかじめ出産は2人までと制限されていて、私と妹の出産時は、いずれも心臓科の医師立会いの下だったことです。そんな状況下で、わたしたち兄妹を産んでくれたことなんて、ぜんぜん知りませんでした。


 そもそも、父と母との馴れ初めも、くわしくは知りません。
あるとき、母が「本当は気になる男性が他にいたんだけれど、父がずいぶんとしつこかったから、根負けしてなぁ」と、眉間に皺を寄せて、本当に嫌そうな表情で話してくれたことを、息子としては少し複雑な気持ちで聞いたことがあるだけです。
 よく考えれば、これも母の自己申告にすぎず、本当かどうかはわかりません。それ以外にも、私たち兄妹や、あるいは父さえ知らないこともまだまだあるのかもしれません。この後の食事会をご一緒する親族の方々から、そういう話を少しでもお聞かせいただければ、うれしく思います。


 まだ母の顔をご覧いただけていない方もいらっしゃるかもしれませんが、とても穏やかな表情なんです。まるで気持よく昼寝でもしているみたいで、少し口が開いているせいもあって、何か楽しい出来事でも思い出しているようにさえ見えます。そんな幸せそうな表情で逝ってくれたことが、私たち家族にとっては、せめてもの救いです。


 3月9日、少しこじつけて言えば、「サンキュー」の日に、そんな幸せそうな顔で逝った母のことを、皆さんのご記憶の片隅にでもとどめ置いていただければ、と思います。本日は本当にありがとうございました。