散ることを愛でる

 取材と打ち合わせを終えて、最寄り駅から家路をいそぐ足をおもわず止めてしまった。遊歩道の彼方にひろがる夕焼けを借景にして、大きな桜の樹が、花びらをはらはらと散らしていた。桜の奥には濃厚なピンク色の小ぶりな桃、優美な紫色のコブシの木が控えている。暮れなずむ春の静ひつさが、辺り一面に満ちていた。ぼくはかなり葉桜になりかけた樹の下から見上げて、しばらく耳を澄ましてみた。何度か深呼吸もしてみた。


 でも音は聴こえてこない。
 アスファルトだからだろうか。以前、公園でブランコに座りながら、桜が散るのをぼんやりと見呆(みほう)けていたときはポトン、ポトンと花びらが地面に着地する度に、小さな音がたしかに聴こえてきたのに。


 もし、桜がけっして散らない花だったとしたら、日本人はこれほどまで、この花の下に毎年集ったのだろうか。
 いや、それはないな。葉も伸ばさずに突然に花びらをほころばせ、ああっ咲いたんだと思った頃には、すでに葉を伸ばして姿をくらます。この唐突な華やかさと刹那(せつな)さを併せ持つからこそだろう。
 散るしかないことへの唯一の抗い方は、花びらを華やかに開くために着々と備え、咲くことを謳歌(おうか)し、散る樣をこそ静かに愛(め)でること。