大人になる

 それは彼なりの悲しみや苦しみのおかげだよ、きっと。
 20歳以上年上の大先輩の言葉に、おもわず僕は息を小さく吸い込んで黙った。やっぱりそうか、という想いが頭の端っこをかすめもした。

 市井に生きる名もなき人々を訪ね歩き、その生業(なりわい)と軌跡の中に、その人の一瞬の光を切り取る。そんな文章に定評がある人物ノンフィクション作家の阿奈井文彦さんに、以前取材した野球のバット作りの名人について感銘をうけたときのことを、僕が伝えた直後のことだった。

 名人が当時65歳をすぎてなお、正月元旦の日に、腰骨辺りの皮膚が擦り切れるほど腹筋運動を200回以上やっていると言われたときに、その年齢でそこまでの鍛錬をご自身に課されるのは、仕事を通して接していらっしゃる、イチロー松井秀喜といった一流選手から触発されたものなのですか?と、ぼくは彼にたずねた。

 荒川さんの意図からは外れるかもしれませんが、
 そう前置きして、彼は地元の山中で、主に鳥を狙って狩猟(ハンティング)をやること、動物たちも自らが生き延びるために射撃者との絶妙な距離感をもっていて、逃げる際に川や丘など、人間がつい億劫がって諦めてしまうような障害物を巧みに利用すること。その川や丘を越えて行くためには、一定の背筋や腹筋力を保つことが不可欠なこと、そして自分は75歳までその趣味をつづけていたいことを、手短に話してくれた。

 その話に耳を澄ましながら僕がもっとも圧倒され、また感動していたのは、冒頭の、荒川さんの意図とは外れるかもしれませんが、という一言だった。それは、ちがいます、でも良かったし、いいえ、でも事足りたはずだったから。その何気ない一言は、当時38歳ぐらいだったぼくに、大人という言葉を想起させるにじゅうぶんだった。

 冒頭の阿奈井さんは、そんな僕の意図を一瞬で把握されて、彼なりの悲しみや苦しみのおかげだよ、と言われていた。二人の大人にはさまれて、いまだに宙ぶらりんな自分はただ黙るしかなかった。