作品をミルフィーユにする第三者の上手い置き方②〜「アラブ・エキスプレス」展


(撮影可でした)
 ミルフィーユとはフランス語で「千(ミル)枚の葉っぱ(フィーユ)」を意味する。カスタードにパイ生地を折り重ねていく様を例えたもの。この作品を観たとき、その言葉が思い浮かんだ。左側の家庭内は影絵のような動画で家族の日常が描かれ、その家の4倍の背丈の怪獣、しかも両手のない怪獣がそれを見下ろしている。

 この怪獣の置き方が上手い。
 両手の無さとはおそらく、怪獣から見れば、ごく小さな家庭をとりまく現実をいくら見聞きしても、まるで手が出せない、つまりは変革できないというジレンマ。そして感情を見せずに暮らしを反復する小さな家庭の代わりに、この恐竜が大粒の涙を時折こぼしたりする。

 それは前回の道路を膝まづいて前進する人たちの行列と多くの共通点をもつ。表面的には淡々たる反復でありながら、その内側には沈黙を強いられる厳しい現実があり、抗議の声さえ圧殺されているジレンマのシンボル怪獣とも読める。その怪獣は時に小さく複数に分身して画面から飛び出していったりもする。
 作品をミルフィーユにするとは、ひとつのテーマに違う要素を重ねることで奥行きと行間をあたえ、社会の在り方を表すこと。

 だがお恥ずかしいが、作品解説を読まずに、スチャラカの想像力がとどくのは前回と今回の作品以外は少ない。
裏返せば、アラブの多くの国々が表現の自由をそれだけ奪われているということ。それは膝まづいて人々を行進させるアイデアを街中で実現させただけで、1年あまり投獄されてしまうという現実に舞い戻っていく。
 制限をあらかじめ課すことで作品の強度を増す。あらためてそのことを教わった。