「当たり前体操」が踊りたい〜内田樹著『日本辺境論』

 かつては中国、現在ならアメリカという「上位者」に対する、「辺境人」として日本人を位置づけるテーマ設定の下、日本人の歴史的な行動形式や勤勉さ、さらには日本語の在り方にまで及んで、その一環した「辺境人」ぶりにスポットライトを当てている。2009年のヒット本を、ある本の関連で読みおえた。


 大東亜戦争を起こした指導層たちが、「わたしたちは戦争以外の選択肢がないところまで追いつめられた」という受動態の構文でしか戦争について語らない姿勢も、辺境人ゆえの手前味噌な思考停止だと、内田さんは指摘する。
 それは原発事故が起きて3年目になっても、まだ誰もあの事故の責任をとっていない放ったらかしぶりや、それについての国民の黙認ぶりも同じ。


 あるいは、下痢ピーで退陣した二世政治家がふたたび首相になる際、二度とああいう無責任なことはしない、という医学的証拠の提出さえ誰も求めないというアバウトさや、耐えられない軽さも同様。どれもこれも原理原則がなく、「当たり前、当たり前」とな〜んとなく見過ごされていく。


 強いものにひれ伏すことをいとわず、時に都合良く思考停止となる一方で、大国の文化や思考形式の吸収には熱心で、ちゃっかりと実利も得て、難局をしたたかに生き延びる、と。なるほどね。
 読みながら、映画『七人の侍』の七人の侍と彼らを雇った百姓たちの関係を思い浮かべてしまった。


 いまだ一本の政策さえ実現していないのに、円安と株高が同時進行すれば、内閣支持率がいたずらに上がる付和雷同型の世論も、すぐになし崩しになる。読み終えると、どこか自虐的な気分で「当たり前体操」でも踊りたくなった。

日本辺境論 (新潮新書)

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