決めつけること 暴くこと〜入江杏著『悲しみを生きる力に』(岩波ジュニア新書)

 当事者でないと見えないものがたくさんある。そして当事者ではないから、無意識に、他人を傷つけてしまうこともある。
 2000年に起きた世田谷一家殺人事件。二世帯住居で、妹一家を唐突に奪い取られた著者が、失望や自責の念、周囲の偏見などから生きる意味をつかみ直していく過程をつづったもの。


 主題とは逸れてしまうが、この本でもっとも胸に刺さったのは、著者家族を取り巻く周りの視線だった。

捜査協力のために、事件に関係しそうな事柄を一生懸命順序だてて、理路整然と説明すれば説明するほど、妙に冷静な人ととらえられてしまったりする。家族や周囲を力づけようと、明るくふるまえばふるまうほど、やけに元気な人だと不審に思われたりする。結局、どんな行動も、すべてが攻撃の材料になってしまうのです。

 
 自覚するにせよしないにせよ、自分の内側にも先入観はある。だが、それが時に他人を傷つけているかもしれないという意識は、まるでない。この下りを読んでゾッとした。さらにこの後、以下の記述に出くわす。

マスコミなどで、遺族の気持ちを表す常套句としてよく使われる言葉に「あの事件の日から、遺族たちの時間は止まったままです」というものがあります。こうした表現に、私はとても違和感を覚えます。これも「『弱者』はこうあるべき」という思いこみの一つだからです。「時間が止まったまま」というのなら、遺族には心の変化や成長などが認められないのでしょうか」

 遺族の悲しみは癒えることがない、という意味で使われる常套句だが、たしかに、そう規定されてしまう側から見れば、じゃあ、明るく振る舞ったり、笑ったりしてはいけないのか、と思えてしまうだろう。
 何かを書いて伝える仕事をしている以上、書かれる側から文章を反芻することを疎かにはできないとあらためて思う。それでも書くことは暴(あば)くことだから、暴力のひとつ。そのことも忘れてはならない。