切っ先の鈍い光〜藤山直樹『落語の国の精神分析』(みすず書房刊)


 落語と精神分析って?
 そう思う人たちは、たとえば「粗忽(そこつ)長屋」をテーマとした章で、こんな文章に向き合うとき、たとえば心臓の裏側らへんに、なんとも嫌な汗をかくはずだ。粗忽とは、おっちょこちょいのこと。

粗忽な人を見るときのひとびとの視線には、もちろん優越感が含まれている。優越感によってこそ、ひとびとはゆとりをもって人に憐憫を向けられるのだ。そして憐憫は愛に似ている。どんな愛にも幾分かの優越感が含まれているかもしれないし、そこには軽蔑も含まれているかもしれない。あいつは馬鹿なんだよなあ、と感じる成分がおそらくすべての愛には含まれている。劣等感と崇拝がそうであるように、優越感と軽蔑も愛の重要な隠し味なのだ。落語にやたらに粗忽な人を主題にした根多(ねた)が多く、観客が彼らを愛するのは、このような事情によるものだと思われる。

 だが、けっして上から目線で、なおかつ怜悧な刃物で「人間」を切り刻むような本ではない。筆者はその章の冒頭で、いかに自分の物忘れがひどいかを延々と書き連ね、ある意味でそれを「枕」にして、落語と人間と精神分析を重ねていくからだ。


 人間は誰もがある意味で病気であること。無意識的なこころと意識的なこころが自律的に動かすことで、人は自らが一人の人間だというある種の錯覚を維持できていること。あるいは、他人をじゅうぶんに蔑むことができなければ、愛することもできないことを、いくつかの落語根多を題材に論じていく。読んでいてふと息が詰まる、少し恐くもなる。ちなみに何度も書くが、巻末の「立川談志という水仙」には痺(しび)れた。


 落語を観て笑う。それは目糞鼻糞を笑うことであり、自分で自分を抱きしめることでもある。落語という古典の切っ先は、エゴン・シーレの醜悪であるがゆえに切なく愛しい自画像のように、わたしに向けられている。

落語の国の精神分析

落語の国の精神分析