見ることの「足元」〜ソフィ カル 「最後のとき / 最初のとき」(原美術館 6月30日まで)

 白いあご髭、白と灰色まじりの頬髯をたくわえた男が、ぼくを見ている。タテ幅150センチ近くの画面いっぱいに彼の顔が大写しされていて、画面から約2メートルの間隔でむき合うと、身長180センチのぼくの目と、彼のつぶらな瞳がちょうど同じ高さになる。原美術館で開催中の『ソフィ カル 最後のとき / 最初のとき』


 海で囲まれたトルコの首都イスタンブールにあって、内陸部で生まれ育った人たちが、生まれて初めて海を見る瞬間の映像が、原美術館1階に並べられている。「最初のとき」のフロア。どの人物もまずは海をゆっくりとながめてから、鑑賞者側に静かにふりむく。寄せては返す波音以外に、言葉はいっさい聴こえない。


 白いあご髭の男は口を固く閉じたまま、まんじりともせずにこちらを見つめてくる。その青みがかった眼は、少し白濁しているようにも見える。実直で大人しそうな顔には、薄茶色のしみが点々と散らばっている。彼がこちらに振り返ったときの表情は、嬉しそうでも悲しそうでもなかった。だが、黙ってハンカチで両目を拭いていたから、感情は大きく揺れ動いていたにちがいない。


 彼としばらく向き合っていると、不安が頭をもたげる。彼がその歳で初めて見たばかりの「海」と、ぼくが知っている「海」は、まるで別物なんじゃないか、と。
 もしかしたら、ぼくは、今まで見てきた「海のようなもの」のイメージを重ね見ているだけで、彼にくらべたらもっとペラペラで、両手で触って確かめずにはいられないような切実さもなくて、パソコン画面の壁紙の「海」とさえ大差ないんじゃないか。


 いったんそう思い始めると、ぼくの「見る」の足元が急にぐらついてくる。見ているようなつもりでいるけど、じつは、たいして見ていないんじゃないか、その恐れは「生きている」ことまでぐらつかせずにはおかない。