「某寺」から見えてくるもの〜明治大学リバティアカデミー『「枕草子」と「春琴抄」 その日本美の文学的音楽的展開』

 ふ〜ん、そうくるか。そんなこと気にしたこともなかったが、新たな視野が開かれる気が確かにした。知ることはおもしろい。谷崎潤一郎著『春琴抄』の冒頭は、こう始まる。
「春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町薬種商の生まれで没年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。」


 町名と宗派まで明かして、なお「某寺」とする必要性がどこにあると思いますか?
 教壇の先生はそう問いかけ、明確な返事がないと見ると、こう続けた。
「先の本文の後、鵙屋一族の墓とは別の場所にその「某寺」はあり、より具体的な周囲の寺社との位置関係まで書き込まれ、春琴の墓はそこにあると書かれているのですが、そんな寺は存在しないのです」


 今月から始まった、明治大学の社会人講座「枕草子春琴抄」でのこと。
 一時、谷崎潤一郎にハマり、一部作品を書き写していたりしたこともある。この『春琴抄』も読んだことがあるけれど、この「某寺」などすっかり読み飛ばしていた。
 薬問屋の娘で、盲目の琴演奏者でもある春琴と、その問屋の丁稚として春琴に仕え、ついには琴の練習まで密かに始めて、春琴と師弟、さらには夫婦関係にまでなる佐助との愛の軌跡をつづった物語。


 そこには「春琴伝」という昔の評伝と、春琴と佐助夫婦に仕えた、鴫沢てるという女性が語り部として登場し、2人の物語をつまびらかにしていく。鴫沢某はフィクションでも、「春琴伝」ぐらいは実在するのかなぁ程度に考えていたわたしは、いずれも谷崎のフィクションだと聞き、自分の浅い読み方がただ恥ずかしかった。


 精緻な細部にこそこだわり、まるで機織りでもする調子で縦糸、横糸と組み合わせて作り上げる大いなる嘘。小説という装置、小説という営為の質感にじかに触れた気がした。

春琴抄 (新潮文庫)

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