口角の上がる夏

 病院の正面玄関を出ると、昼下がりの強い日差しと、むっとする暑さに全身をつつまれた。だが少しもひるまず、むしろ、もっと来やがれという気持ちだった。「そろそろ、軽いジョギングぐらいなら始めてもいいでしょう」整形外科外来の30代前半の担当医にそう言われたばかりだった。怪我からちょうど2カ月で、くしくも東京マラソンのエントリー開始日だった。帰宅するや否や、さっそくパソコンでエントリー作業を終えた。


 整形外科の外来はいつもバリエーション豊かだ。ラグビーやアメフト系の日焼けした屈強な体つきで足を骨折した男たちや、三角巾で片腕をつるした高齢者や、車椅子や寝台に寝たまま診察を待っている入院患者たちもいた。そこは救急患者用の搬送口とも近くて、寝台と点滴注入のまま搬送される人たちも目の前を横切っていく。その日は青い太いヒモを腰に三重に結ばれ、前後を目つきの鋭い男たちに付き添われながら、身長190センチほどの容疑者風の男がレントゲン室のほうへ消えて行った。


 ぼく自身、怪我をした直後、タクシーで病院に乗り付け、応急処置で三角巾で左腕を曲げたまま固定して外来の椅子に座っていたし、骨折した骨をプレートで固定する際には、寝台に載せられたまま、ちょっとテレビドラマの主人公のような気持ちで手術室まで運ばれ、全身麻酔で眠りに落ちていた。
 だから、どれほど非日常な状態の外来客もつい先日の自分とダブり、少しも違和感がなかった。不運や事故がどれほど身近なもので、日常や普通が笑ってしまうほど脆いのかもよくわかっていた。


 その日の夕方、ひさしぶりにジョギングシューズに履き替えて、さっそく近所の遊歩道に出た。おっかなびっくりで、歩いては走り、走っては歩きして身体の感触を確かめてみた。ちょうど満開の百日紅さるすべり)の桃色の花の下をくぐり、はぁはぁという吐息、とくとくと高鳴る心臓音、走れば走るほどほぐれていく筋肉、しだいに汗にまみれる全身を洗ってくれる風のすべてが、愛おしかった。
 自然と口角が上がる。日常に隠れている幸せを探し当てたような気分でもあった。ひと月遅れで、ようやく夏がやって来た。