幼形成熟 〜井口時男『少年殺人者考』(講談社)

 永山則夫や李鎮宇から、宮崎勤や神戸連続児童殺人事件の少年A、最近では秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大。本やメディアに露出した彼らの言葉や生い立ちを、文芸評論としてまとめる。その理由を、本書のあとがきで、井口氏はこう書いている。

彼らは、身をもって行使するその凶悪な暴力に賭けて、自分というものの生存の意味を疑い、「世界」というものの不合理を糾弾し、自分にこの「運命」を強いる何ものかを告発するのだ。(中略)たしかに彼らは、問う相手を取り返しのつかない形でまちがえ、問う方法を取り返しのつかない形でまちがえている。だが、単純にして赤裸なその問い自体は、かつて年少の日に私が文学というもののなかで初めて出会った問いと同じものだ。


 なぜ宮崎以降の事件と、高度成長期の永山らを同列に論じるのか。そこには時代の変容、犯人たちと言葉(内面)との葛藤ぶりといった視座が隠されている。たとえば、永山や李らは事件を起こして死刑判決を受けることで初めて自分と向き合い、社会と自分の関係をとらえ直し、膨大な言葉を残している。


 著者は永山の「事件が在る故に私がある」という、デカルトをまねた言葉に着目する。母に捨てられ、極寒の青森で飢えを経験し、兄弟からも虐待されて自分が生きる意味を見出せなかった彼が、事件によって自分の内面と対峙し、自分が生きている意味を手に入れたと書く。


 他方、綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人の少年たちは、事件の外見上の凶悪さと対照的に、事件後もほとんど言葉がないと指摘する。たしかにバブル景気の時代に彼らなりの貧困と、落ちこぼれの不遇さはあるものの、それは永山らの時代と比べれば相対的なもので、殺人においてすら主体たりえず、相対的な存在にすぎない、と。


 ゆえに殺す主体にも、事件後に自らと向き合い語る主体にも、それゆえに罪を引き受ける主体にもなれない「子供」の時代を見出す。少年たちを「大人」へと成形するための外的な強制力も規範性も失っていた時代として、バブル景気の社会を透かし見てもいる。


 その筆先は、最終章でわたしやあなたにも向けられる。携帯メールの掲示板に、犯行直前までその内面をつぶやきつづけた加藤智大。彼の言葉と反抗の関係についてはこう書く。

人間は所感を反芻し熟成させて内面という領域を確保し強化するのだとすれば、その「時差=遅延」が消滅するとき、内面もまた、即時的反応レベルへと後退するだろう。(中略)メール掲示板であれ、ブログ日記であれ、内面が晒される代わりに固有名が消える。固有名なき匿名の内面が、無数の携帯電話やパソコンの画面に白々と晒されながら、認知と承認を求めて、あてどなく、不在の他者たちの匿名のまなざしを待っている。どんな孤独な屋根裏部屋も「世界」と直通しているのだ。


 この指摘に、わたしはもっぱらFacebookだから、なんていうノー天気な言い訳は通用しない。

少年殺人者考

少年殺人者考