ふいの温かな右手〜 久保田五十一さん(70歳)の引退報道に

「荒川さんの期待に添えなくて申し訳ないんですが、私は趣味で狩猟をやるんですよ。鳥もふくめて、山の動物たちは人間が近寄れない境界線をじつによく知っていて、そこを越えて近づける体力が欠かせない。できれば狩猟は70歳までつづけたいと思っているんです」


 久保田さんはそう言われた。野球選手のバットづくりの名人で、「現代の名工」に選ばれたこともある方。
 先の発言には前段がある。取材の流れで、いつも元旦の朝、どれだけできるかと腹筋運動をやるようにしていて、今年は200回超できたんですが、尾てい骨の皮膚が剥けてしまいました、と彼が苦笑しながら明かしてくれたのだ。
 
 
 それを受けて、そういう自己鍛錬の習慣は、松井秀喜イチロー選手といった方達と接する中で影響を受けられたからですか?と、わたしが尋ねたことへの答えが、冒頭のものだった。もう6、7年近く前のこと。


 「いいえ」、あるいは「違うんです」でも何の問題もない。
それを「荒川さんの期待に添えなくて申し訳ないんですが」とさらっと前置きされた久保田さんの繊細な心配りに、グッときた。ふいに温かな右手を、それもさりげなく背中あたりに添えられたような気持ちになった。いったい、どんな人生を送れば、そんな言葉遣いができるようになるのだろうかと、一瞬そんな想いをはせたりもした。


 しかも、今の仕事をしている間に、ぜひ一度お会いしたいと以前から漠然と夢見ていて訪れた好機だった。職場では「名人」と呼ばれているのに、尊大さを微塵も感じさせない方だった。そればかりか、その日が初対面の若造に、名刺交換で相手の名前をきちんと頭に入れて、そんな言葉を口にされた時点で、もう、すっかり心を奪われていた。55年間にわたるお仕事、ご苦労様でした。