誰にも奪われない力〜河原理子著『フランクル「夜と霧」への旅』


  毎朝起きると洗顔、つづいて布団のうえでストレッチをしてから、ベランダに出る。座禅を組み丹田で深く呼吸しながら、まず母の顔を思い浮かべる。お湯を沸かしお茶を入れて小鉢に分け、お茶好きだった母の写真の前において、おはようと声をかける。


  あるいは、ジョギングを終える度に空を仰いで手を合わせる。「今日も無事に走ることができました」と母に報告する。親不孝だと叱られるかもしれないが、他界してから、むしろぼくには彼女がとても身近になった。また、母を失ったからこそ、受けとめられる本もぽつぽつと出てきた。


  ナチスの収容所生活を生き延びたヴィクトール・フランクルの著書『夜と霧』。河原は、苛烈な人生を歩むゆえに、その本を愛読書とする人々を訪ねるととともに、フランクルの家族と収容所を尋ねた軌跡をこの一冊にまとめている。


  心臓をグニュッとつかまれた場面がある。収容所時代、夜明け前の氷のように冷たい風の中、蹴りを入れられたり、銃床で追い立てられたりしながら、工事現場へ行進させられながら、ふいにフランクルは一見小さく、じつは大きな発見をする。
  別の収容所へと引き離された妻(そのとき、すでに亡くなっていたのだが)の面影で心が占められ、精神がこれほどいきいきとその面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかったとして、彼は続ける。その想像力はけっして誰にも奪うことができない、と。

<収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えるしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。>
(『夜と霧』池田香代子訳)


  以前の自分なら、この部分をきっと言葉の上っ面でしか受け止められなかったはずだ。もちろん今でも、どこまでの深さで読めているのかは、はなはだ心もとない。それでも日常の手触りの中で自分なりにつかまえられている、その実感はある。
  不透明感ばかりがつのる世の中で、フランクルの言葉は今まで以上に必要とされている。著者である河原のそんな想いもたしかに伝わってくる。

フランクル『夜と霧』への旅

フランクル『夜と霧』への旅